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瞑想とは、神を知り、神へと至る方法である

瞑想図 Takaaki Yamada作成

少し古い話題になるが、一神教や創造論をぶった斬ったリチャード・ドーキンス博士の『神は妄想である』(早川書房 07年5月刊)は、欧米で大きな反響を呼んだ。正直いって無教養な私には難しすぎる内容だったが、それでも分かる範囲で言うと、とても説得力があるように感じられた。精緻で独創的な論理を駆使する様は、いかにもサイエンスの本場である欧米の知識人らしい。ただ、神というか、超越的な存在について、もう少し「インドから東の見方」について深入りしてもよかったのではないかな、という気もした。

あえて「インド精神文化圏」と言うが、神は存在するのか否かという「論」自体、それほど重要視されていない。というのも、そもそも神は、言語とそれによって紡ぎ出される論理・表現力を超越していると見なされているからだ。人間の想像力は万能であると錯覚されがちだが、実際には神をイメージすることは難しい。仮にキリスト像や仏像、あるいは眩しい光のようなものを想像しても、それは単に当人が神だと思い込んでいるものにすぎない。

このように、人の思考力や想像力ですらも神を捉えることは難しいため、インドから東の地域においては、昔から違ったアプローチが推奨されてきた。

実はそれこそが「瞑想」なのである。

今日、瞑想というと、精神集中だとか精神修養などと誤解される向きもあるが、本質は己の意識の内へ内へと向かい、その奥に存在するものと邂逅する手段である。その時の経験はしばしば「無になる」とか「無我の境地」とも称される。むろん、そういう気がするだけで、実際に自分が無くなることはない。ただ、自分と世界との境界線がなくなり、相対感が消滅し、一体化するような不思議な意識状態に至る。この状態は昔から「法悦」とも呼ばれ、内奥から湧き出る多幸感・満足感・安定感を特徴とする。修行者はこの「尽きることのない至福」を目指して、静かに目を閉じ、ただ忍耐強く座してきたのである。

むろん、実際には口で言うほど簡単ではない。そこへ至るには、自らの奥へと深く沈潜しなければならない。そのような深い瞑想状態に入るには、ちょっとしたコツがいる。実際に何度もトライしてみて、自分なりの方法を体得するのが一番の近道である。

他人が何と言おうとも、私自身はこれが「神を真に理解するほとんど唯一の方法」だと信じている。今まで砂糖を味わったことのない人が、砂糖について記された本を何百冊も読んだところで、正確には理解できない。ちょうど、宗教学者が集まって神について交わしている論争はこのようなものである。だが、舐めてみれば、一瞬にして砂糖とは何かが誰にでも分かる。逆に言えば、舐めてみなければ、永遠にその本質は謎に包まれている。

神もそれと同じである。人の五感では決して把握できない。言語でも表現しきれない。想像力でも分からない。唯一、体験によってのみ知ることができる。だから、神の存在を客観的に証明することは至難の業だ。だが、主観的に神を知る道なら開かれている。驚くべきことに、人間には生まれつきその「直覚能力」が授けられている。ただし、普段その力は眠っている。五感の信号をできるだけ遮断し、思考をやめ、ひたすら額に意識を集中し、井戸の底へ深く沈むがごとき意識状態に入ることによって、それは発現する。

こうして、人は神の存在を経験することができる。よって、「神はいない」と断言する人は、ただ知らないだけだと思う。主観的体験ゆえ、人によって微妙に表現は異なるだろうが、私自身は、神とは意識の「大海」のようなものであり、人(個人)とは「自我というコップに入った水」のようなものだと認識している。だから万物・万人は同根である。

神とは何か、真の自己とは何か。それを知りたい人は、本を読むのもいいが、少々忍耐強く瞑想を試してみることもお奨めしたい。

2014年11月20日「アゴラ」掲載

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