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人生を夢と考えることは現実逃避ではなく有益なこと

撮影:Takaaki Yamada

世の中には、極度に困難な人生を送っている方も現実に存在します。

たとえば、極端に貧しい家庭に生まれたとか、肉体的な欠損があるとか、重度の病気や障害を患っているなどのケースです。顔に大きなアザがあるだけでも、そうでない人に比べれば、世界の風景は違って見えるに違いありません。

誤解のないように言っておきますが、そういった人の中にも、ハンデをものともせず、明るく前向きに生きていらっしゃる方は大勢います。ただ、中には、人生は苦しみ以外の何者でもないと、嘆き悲しんでいる人もいるでしょう。とりわけ人間は社会的な生き物ですから、不公平や不平等ほど、人をして不満や疑問に駆り立てるものはありません。

中には、毎日のように天に向かって「神様、なぜですか? なぜ私だけ、こんなに苦しい人生を送らねばならないのですか」と、問いかけている人もいるかもしれません。

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「生まれては苦界 死しては浄閑寺」 東京荒川区南千住にある浄土宗の浄閑寺(じょうかんじ)。吉原遊廓の近くにあったため、遊女の投げ込み寺としても知られた。 撮影:山田高明

むろん、神様も、天も、あなたの疑問に対して、答えてはくれません。この世を呪いながら生きている人にとって、おそらく死こそが苦しみから解放される唯一の手段でしょう。しかし、本当は、神様は、あなたの涙の理由をすべてご存知です。

パラマハンサ・ヨガナンダは、『人間の永遠の探求』において、「宇宙は夢」であり「この世の経験はすべて夢の出来事である」として、私たちが人生で困難を経験する一つの理由を次のように述べています。

困難は、この人生が夢であることをわれわれに悟らせるためにあるのです。われわれはみな、困難からそれを学ぶべきです『同書』(P239)

苦痛に満ちた一生を送る人にとって、人生は単なる夢にすぎず、今の自分はあくまでも仮の姿であり、一時的にその役柄を演じているに過ぎないという考えは、大きな慰めであり心理的な救いともなります。

唯物論の間違い

しかしながら、現代では、困難に直面した際、「自分が今経験していることは単なる夢にすぎない」と思い込むことは「現実逃避」であると見なされがちです。カウンセラーの中には、「現実から逃げずに向き合いなさい」などとアドバイスする人もいるでしょう。

しかし、はっきり言って、そのようなアドバイスは、内心で相手を見下していることから生じるものであり、無用のものです。いずれそのカウンセラー自身が、この世は夢に過ぎないという真の現実を思い知らされることになるでしょう。

今日、肉体と真の自己とを同一視する思考は、科学的とか、近代的などと見なされ、当たり前のものと見なされています。この風潮を後押ししたものの一つが唯物論です。

またの機会に述べますが、自然科学の世界ではとっくに否定されている唯物論ですが、この概念はある政治的な理由から意図的に広められたものです。広めた首謀者自身は、唯物論などというものをまったく信じていません。しかし、これが“科学的な世界観”だという誤解が広がり、その結果、目に見えない世界の存在を否定し、肉体が真の自己であるという思い込みが浸透しました。その分だけ人々の苦悩も増したのです。

しかし、この世が仮想現実に過ぎないとしたら、そう思うことは決して現実逃避などではありません。この世がすでにゲームの世界、すなわち一種の「セカンドライフ」であり、死と共にログアウトするだけだという認識は、むしろ私たちの心を軽くし、物質的な富や世俗の地位に対する執着を弱めることにも大いに役立ちます。

サイババさんも次のように言っています。

人間を立派にするのも、損なうのもこころです。こころが世俗のことのみにかかわり合うとき、こころは人を束縛に落としいれます。こころが人生を束の間のものであると観ずるとき、その識別心は人間を自由に、身軽くします。浮き沈みをつねとする人生に執着をもたぬよう、こころを訓練しなさい。こころのまえに、世俗的名誉や金銭的富などのけばけばしい輝きをちらつかせることがないように

『黄金の宇宙卵』(P56)*傍線筆者

ただし、この世界が夢だとしても、夢遊病者のように振舞ったり、自分が何をしてもよい自由を獲得したなどと錯覚したりすることは、本人に大きな害をもたらします。なぜなら創られた世界だからこそ、厳格なルールがあるからです。他人を害することは重大なルール違反であり、必ず本人に結果が降りかかってきます。

そのルールを踏まえた上で、この世界が束の間の夢であると認識することが、この“セカンドライフ”をうまく過ごすコツではないでしょうか。

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