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なぜ他人を尊重できる人ほど人間として発達した存在なのか

撮影:Takaaki Yamada

飢えた動物の群れの中にエサを投げ入れると、先を争って奪い合いを始めます。ある個体はエサをくわえたまま、安全なところへ走り去り、独りありつこうとします。

しかし、人間ならば、列を作って並んだり、子供・老人・病人などの弱者を優先したりすることができます。人間は、肉体とそれを維持するための生存本能に呪縛されながらも、前頭葉とそこから生じる理性の力によって、その肉体性と本能性を制御することができます。その結果、人間的と思われる振る舞いをしようと努力します。

対しては、動物は「他者を尊重する」ということが(ごく少数の例外を除いて)できません。ここが動物と人間との大きな違いです。このことから、「他人優先主義」の人ほど、動物から遠く、人間として進化した存在であると言うことができます。逆に、何でもかんでも「おれが、おれが」の「我よし」の人ほど、動物に近い存在といえるようです。

しかしながら、現代では、それは個人の自由と混同されがちです。犬は、吠えたい時に吠え、小便したい時にし、眠りたい時に眠ります。それを「自由」と呼ぶならば、たしかに人がしたいと思ったことを好きにやる行為も「自由」でしょう。しかし、それは“動物的な自由”です。他者と社会への配慮に欠き、公共の利益を損なうものは“人間の自由”ではありません。他者への酷い侮辱や差別もそれに該当すると言えます。

そもそも他人のことをおもんばかる英知は、すべての人間の中に自分と同じ神性を無意識のうちに見出すところから発しています。西洋において「人が生まれながらに持つ権利」という概念が生まれ、それが証明不要の自明のものとされたのも、根底には人間の同一性に対する哲学者たちの深い洞察があります。これを養う上で大きな役割を果たしたのが、当時西洋で大流行していた哲学的錬金術(フィロソフィカル・アルケミー)だろうと私は推測しているのですが、これは本題から外れるので、これ以上述べません。

仮に、他者をして“鏡に写った己自身”と認識できるならば、そう酷い仕打ちはできないはずです。もともと日本では、他者尊重・他者優先の風潮が強く、目に見えない大きな財産でした。しかし、今では常時、誰かを罵倒し、蔑んでいる人が多くなりました(しかも匿名の影に隠れて)。興味深いことに、新約聖書ではそのことが予言されています。

「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。」(テモテへの手紙二03・1~5)

まさに現代の状況ですね。以前にも言いましたが、他者とは、実は他の姿と名前をもつ自分自身に他なりません。サイババさんもそうおっしゃっています。だから、自分の欲得のために他人を押しのけ、利益を得ることができたとタカをくくっている人は、それが一時的なものにすぎず、結局は自分に跳ね返ってくることを知らないだけなのです。

(*まあ、あまり言い過ぎると、ブーメランになりますけど・笑)

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