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なぜ宗教の融合が必要なのか

出典:ゆんフリー写真素材集 No.7381 富士山

なぜ宗教が生まれるのでしょうか?

人は唯一者から生まれ出た存在として、再び唯一者へと還るように定められています。ただし、あまりに「幼く無知」であるがゆえに、その過程では、ありとあらゆるこの世の謎と理不尽に直面して迷妄し、苦悩します。その理解不能の連続にあって、人は必然的に天に向かって「なぜ?」という問いを発し、答えを求めようとします。

人であるがゆえに抱く根源的疑問の数々

その「問い」の中でも最大のものが、次のようなものではないでしょうか。

この世とは何なのか?

誰がこの世界を作ったのか?

人はなぜこの世に存在しているのか?

なぜ生まれては、老いるのか?

なぜ病に苦しみ、家族と生き別れ、死ぬのか?

人は死んだらどこに行くのか? 死ねば何もかも終わりなのか?

そもそもそれを不思議に思っている「自分」とは何なのか?

自分はなぜこの世に生まれたのか?

自分はなぜここにいるのか?

自分以外の存在がなぜいるのか?

他者とは何なのか? 自分と他者との関係は何か?

なぜ人間は家族を作り、集団を作り、社会を作るのか?

なぜ何かを愛する感情を生まれつき持っているのか?

なぜ誰かを愛する時、満たされた気持ちになるのか?

人は他者といかに関わり、いかに生きるべきか?・・・

これらの「根源的問い」に対して答えを出すのが「霊的知識」(霊的真理)です。

人は途中でどれだけ寄り道し、迷い、遠回りしようとも、結局は神へと至る定めから外れることはできません。山はどこから登っても結局は頂上へと着くように。だから、どんな悪人であれ、いつか必ず、その道へと帰ってきます。それゆえ、人はこの「霊的知識」を求めてあがきます。まるで乾いた地面で魚が水を求めて暴れるように。

むろん、この世に生まれ、生きるために闘争し、そして死ぬという宿命は、動物も同じです。しかし、そのような現実に直面しても、動物期においては、魂はそのことに疑問さえ感じません。つまり「魂が渇く」のが人間の特徴です。逆にいえば、そのことに疑問を感じるまでに十分に脳が発達した時、その高等生物は「人間」と呼ばれるのです。

盲人たちが象を触った。各自は様々に表現した。それを宗教という。

しかし、では人間ならばその霊的知識を正確に把握できるかというと、とてもそうとは言えないことは、われわれ自身を見ればよく分かります。人間はまだ多くの動物的性質を引きずっている存在です。依然としてその一部しか理解できないのです。

しかも、霊的知識は物質的形態がありません。「形」として具体的に目に見えないということは、人間は霊的知識の前では常に「盲人」と同じだということです。それゆえ、私たちはずっと「手探り」でそれを確かめてきました。

ちょうど、盲人たちが象を触っている姿を想像してみてください。

胴体を触った者は「象とは岩のようだ」と表現しました。他方で、脚を触った者は「柱のようだ」、尻尾を触った者は「ロープのようだ」、耳を触った者は「一枚の皮のようだ」、鼻を触った者は「大蛇のようだ」・・・触る箇所によって各人の表現も様々です。

私は、私たちが宗教と呼ぶものの正体は、このようなものだと思っています。つまり、人間にできる範囲で霊的知識を解釈したものが宗教なのです。あらゆる宗教は広大な霊的知識の断片しか語っていません。

それゆえ、宗教は確かに民族や国境の壁を越えますが、宗教それ自身の壁をつくり、人類に形而上学的分裂をもたらしてしまうのです。

ただし、これを滑稽だと言って笑ってはいけません。そんな資格は誰にもありません。言ったように、人間は自然と霊的知識を渇望します。それゆえ、どんな宗教であれ、これまで無数の人々の多大な努力が注がれてきました。たとえそれが広大な霊的知識の断片に過ぎないとしても。逆にいえば、どれも何らかの真理を含んでいるということです。

一つしか知らないものは、一つとして真に知りえない

大事なことは、各宗教の不完全性について認識するということです。むろん、自分が絶対の真理だと信じている宗教でもです。そうすれば謙虚になり、他の宗教を尊重することができるでしょう。

一つの宗教に一貫していなければ無節操な人間であるという考えは、単なる偏見にすぎません。それは他の宗教を排斥し、愚弄する愚かさと背中合わせです。

一つしか知らないものは、一つも知りえないと言います。比較の対象があって、はじめて相対化可能だからです。自分にとって「他の」宗教と接しましょう。そして、自身が生まれ育った中で見知っている宗教と相対化すべきです。そうすればもっと真理がよく分かります。

教義の矛盾は、霊的知識そのものが矛盾しているのではなく、その人間的解釈が異なっているに過ぎません。「盲人と象」の例えを思い出してください。いろいろな宗教を学んだほうが、より真理の全体像に近づけることは間違いありません。その結果、同時に複数の宗教を信仰することになったとしても、何も悪いことではありません。

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