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なぜ宗教は堕落してしまうのか? 1・宗教論争の馬鹿馬鹿しさ

撮影:Takaaki Yamada

できるものなら様々な宗教を心と精神的成長の糧としたほうがいい理由を、前回に述べました。今回は逆に取るべきでない態度について述べます。

なぜ宗教の融合が必要なのか
なぜ宗教が生まれるのでしょうか? 人は唯一者から生まれ出た存在として、再び唯一者へと還るように定められています。ただし、あまりに「幼く無知」であるがゆえに、その過程では、ありとあらゆるこの世の謎...

人は姿形のない霊的知識の前では盲人同然です。

もし滑稽な態度があるとすれば、それはこの盲人たちが「自分こそが真理だ」と自慢することであり、論争することです。「象とは柱のような形をしている!」「いや、ロープのようなものだ!」「いやいや、もっと太い、大蛇の同類だ!」などと盲人たちが互いに言い争っている姿を想像してみてください。宗教論争とはそのようなものです。

これが「宗教の堕落」の最たるものでしょう。

人間のレベルでは、目に見えない霊的知識の全体像を把握することは困難です。しかし、人は人であるがゆえに、必然的に「この世界とは何なのか、自分は誰であり、どう生きるべきなのか」という疑問に取り付かれ、答えを求めます。だから、太古の昔から手探りでそれを探ってきました。ちょうど盲人が象を触わって確かめるように。

各人が様々にそれを表現しました。その内容に応じて今日、宗教、信仰、倫理、道徳、哲学・・などと様々に呼び表していますが、共通するのはいずれも広大な霊的知識のほんの断片にすぎないことです。だから、自分の信じる内容が唯一絶対の真理であるなどと主張することは、おこがましい限りであり、無知と愚かの極みと言えます。

必然的に生まれる分裂に終止符を打つには?

さて、各人の表現の中でも、「人としていかにあるべきか、いかに生きるべきか」という道徳は、他者との関わりや社会生活といった経験を通して、比較的に法則化しやすいと言えるでしょう。たとえば「年長者を敬う」などの道徳は、地球上のどの社会にも見られます。一方で、創造主と創造の秘密などの根源的真理を明らかにすることは容易ではありません。だから、この部分で著しい違いが生じ、人々の分裂を生みます。

人は本能的に人間の力をはるかに超えた何らかの超越的・普遍的な存在を察知し、昔からそれを「神・天・聖霊」などと呼び表してきました。「神は千の名と姿を持つ」と言われるほど、多様な表現が存在します。その人間的解釈の違いが、昔から「おれたちの神様・おまえたちの神様」という類いの区別を生んできました。唯一神や絶対神の存在が“発明”されましたが、その神の言葉に対して、やはり人間的な解釈が入ったり、啓示者が違ったりします。その結果、同じ神なのに語っている内容が食い違い、結局は「私たちが正しい、お前たちが間違っている」という類いの分裂を生んでしまいます。

ですから、大昔からえんえんと繰り返してきたこの騒動に終止符を打つには、どんな宗教も不完全であり、真理の全体を表してはいないという苦い真実を、人々が謙虚に受け入れるほかありません。そうすれば、よほど社会常識から逸脱したものでない限り、どんな宗教であれ尊重しよう、又相手から学ぼう、という意識が芽生えるはずです。

実際、宗教を山の頂上へと目指すルートにたとえるならば、それは単なるルートの違いに過ぎないのです。どんな宗教であれ、神を目指すならば、それは頂上に神がいるルートに変貌します。どのルートを極めても、最後には神に行きつくわけです。そのルートの優劣を巡って互いの揚げ足をとる時、まさに人はルートを外れる過ちを犯しているのです。

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