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ブッダの説く「無論争の境地」の紹介(とくにツイッターで心が休まる間がない方へ)

撮影:Takaaki Yamada

以前の記事で、宗教論争の馬鹿馬鹿しさについて触れました。

なぜ宗教は堕落してしまうのか? 1・宗教論争の馬鹿馬鹿しさ
できるものなら様々な宗教を心と精神的成長の糧としたほうがいい理由を、前回に述べました。今回は逆に取るべきでない態度について述べます。 人は姿形のない霊的知識の前では盲人同然です。 ...

霊的な真理は「目に見えない」ため、その前では人は盲人同然です。それゆえ、宗教論争を、その盲人たちが、自分が見たこともない動物の正確な姿について、互いに自分の信じるものこそ真理であると自慢し、言い争っている姿に例えてみました。

実は、ブッダもそのような人間の性向を次のように見抜いていました。

 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。――「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

中村元訳『ブッダのことば』(スッタニパータ)(P193)

紀元前数百年前の言葉とは思えないほど、今の私たちにもそっくり当てはまるのには驚かされます。それだけ人間の性は変わらないということでしょうか。

要するに、こういう種類の人をまとめて「愚者」であると言っているわけですね。

ツイッター界に見られる“心の地獄”

しかし、これは何も宗教論争だけに限りません。たとえ些細な物事であっても、それが正しいか否かという論争になる時、たいてい宗教論争と似た様相を呈してきます。

これは私も含めて人が極めて陥りやすい罠の一つです。とくに、政治的な議論になると病気の様相すら呈してきます。仮に科学上の論争でしたら、一応は客観的証拠を突きつけあって真理を明らかにするという建前や約束事がありますが、政治的な議論となると、主張する者の立場や利害のバランスによって真理が変わってくることも多々あります。たとえば、税金を下げるというメリットは、行政サービスの低下というデメリットと背中合わせです。どちらかというと絶対的真理よりも相対的真理の世界といえると思います。

誰しも、自分が正しいと信じるものを否定されるのは気分がよくありません。しばしば自分自身までが否定され、軽んじられ、馬鹿にされた気になります。なぜなら、人は自分が信じるものと同一化するからです。だから、人は論争し、勝とうと必死になります。それはもはやテーマが実際に正しいか否かという問題ではなく、己の自尊心や人格の掛かった問題なのです。こうなると、もう「戦い」とか「決闘」の世界ですね。

こういった不毛な、それこそただ精神エネルギーを消耗するだけの己のプライドを賭けた言い争いは、今では以前よりも日常的に見られるようになりました。それがインターネットの世界、とりわけツイッターです。

あらゆる文明の機器同様、このツイッターもまた諸刃の剣です。空間を越えて見知らぬ人々ともコミュニケーションできる一方で、無用の軋轢を生む機会を増やしました。ここでの失言や論争が社会的な命取りの原因となった人も少なくないようです。

幸い、私はツイッターとフェイスブックはやりません。自分で勝手に「ノー・ツイッター、ノー・フェイスブック」ポリシーなどと名づけて(悦に入って)います。

もともと「流行りもの」は追わないというのもありますが、時間を無駄に潰してしまう点を恐れたことや、その他、ここでは述べられない陰謀論的な理由もあり、メリットよりもデメリットのほうが多いと判断したためです。

今にして思えば、やらなくて良かったなと(笑)。

とくにツイッターで年中論争している人たちは、心の休まる暇がないのではないでしょうか。建設的な意見や情報を発信する分にはいいですが、もっぱら人を批判したり、揶揄したりする道具として活用していると、結局はそれが自分に跳ね返ってきて、「無間地獄」ならぬ「無間論争地獄」に嵌まってしまうケースも多いようです。

無用なトラブルを避けるための三つの知恵

さて、ブッダは問題点を指摘するだけでなく、こういった(ツイッター)地獄界にいる皆さんに対して、きちんと解決策も示しています。

 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、――かれはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

(たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

中村元訳『ブッダのことば』(スッタニパータ)(P196)

ブッダ先生は大昔において問題の本質を見抜いておられたのです。

第一に、私も含めての話ですが、自分の考えや意見が絶対の真理であるかのようなもの言いは止めることが肝心です。こういった態度は他人の反発を招くものです。

ただし、単なる処世術ではなく、「根から断つ」には、自分の知識などたかがしれているという客観的事実を受け入れることが大事です。そうすれば、人は「何が何でも自分が正しい」と声高に主張しなくなります。また、他人の知識や、違った角度からの視点も参考にしてみようという気持ちにもなります。つまり、自分の考えや意見などに対する過度の信頼やプライドは捨てて、常に「間違っているかもしれない、どこか補うべき部分があるかもしれない」という謙虚な姿勢を持ったほうがよいのです。

第二に、他人のそれを無下に否定しないことです。「それは違う」「間違っている」などと頭から決め付けず、「私は違う考えです」「私の考えは少し違います」というふうに言いましょう。「あなたの考えは尊重しますが」と前置きすると、もっと好ましいでしょう。事実関係の過ちを指摘する際は、それのみを淡々と指摘するに留めましょう。

とくに信仰の場合には、精神的存在としての自分が掛かってしまうため、否定されると、誰でも人格までが全否定された気にすらなります。だから、人はいったん己の信念体系を築き上げると、それと一蓮托生となり、崩壊することを恐れ、必死で守ろうとします。

その人の信仰を安易に批判することは、その人に対する重大な侮辱になります。よほど社会常識を欠くケースを除いて、むやみに相手を否定しないように気をつけましょう。

第三に、ある種の人間は最初から相手にしないようにしましょう。その人間とは、上の第一と第二に記した悪しき例に当てはまるだけでなく、自分が優越感を得たい、他人に対して精神的に優位に立ちたい、自分の権威や存在を確立したいという卑小な動機から、人を批判し、粗探しをして回る者のことです。ツイッターやブログで、えんえんと誰かの誹謗中傷ばかりやっている者は、たいていこのような人格的欠点の持ち主です。

そういう者ほど「自分は社会を良くするために議論しているのだ」などの大義名分を掲げる悪知恵を有しているので厄介ですが、本人の実際の行動を見れば仮面であることは一目瞭然です。誰もがこういう人間に吹っかけられた経験がある――ましてやネット全盛の今日――と思いますが、犬に噛まれたと思って、相手にするのは止めましょう。