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人間は己の身体の血の一滴ですら所有できない

撮影:Takaaki Yamada

人間は誰しも「老い」と直面する宿命にあります。「老い」は仏教の四苦の一つです。日本は今後ますます少子高齢化社会へと向かっていきます。個人としてだけでなく、社会としても、改めて「老い」の本質と向き合わざるをえません。

ブッダは「老い」について次のように説いています。

 ああ、短いかな。人の生命よ。百歳に達せずして死す。たとえそれより長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

と、このように、人間にとって死は避けられない宿命であることを簡潔に述べた上で、次に、その際に人が陥りやすい心の罠に焦点を当てています。

 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。

人が「これはわがものである」と考える物、――それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。

執著(しゅうじゃく)とは仏教用語で、物事にしがみつき、捕らわれ、固執することなどを表します。訳者の中村元がこの言葉を使っておられるので、そのまま引用しますが、実際には現代語の「執着」(しゅうちゃく)とほぼ同じ意味です(*この用語を使って「しゅうじゃく」と読む場合もありますが、いずれにしても大切なのは内容です)。

何かを所有できる又しているという錯覚

私たちが普段の暮らしにおいて「わがもの」と信じて疑わないものとして、たとえば、預金や自宅、自動車やパソコンなどの「所有物」を挙げることができます。実際、「これは私のモノ、あれはあなたのモノ」という区別がなければ、他人が勝手に人の物を使ってもよいことになり、トラブルになります(笑)。だから、社会で生きていく上で、現実に所有権の概念を捨てることはできません。

ブッダさんがおっしゃりたいのは、あくまで「その所有に執着するな」ということですね。しかも、どうせ死んだら放棄せざるをえないのだからと、人の死と絡めて説いている。その放棄の対象には人間関係までも含まれています。

 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみとものおしみとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏を見たのである。

以上、中村元訳『ブッダのことば』(スッタニパータ)(P180)

このように、愛する人でさえも、一時の夢のようにはかないものだ、というわけですね。家族、異性、友人・・・すべては夢の中の会った人も同然の存在。

また、かつて世の中に名を馳せた人であっても、死ねば名前だけ残して終わりということは、人は己の肉体ですら所有できないということです。当然、私たちの存在に付随する一切のものもまた消え去る運命にあります。つまり、ブッダの言う「わがもの」には、物質的な富や所有物だけでなく、社会的地位や栄誉・名声も含まれるわけです。

結局、老いと死が意味するのは、「何かを所有できる」とか「所有している」という思い込みは、単なる幻想にすぎないという真実です。

私たちは本質的には何も所有できない。己の肉体の血の一滴でさえも。すべては生きている間、一時的に借りているにすぎない。だから、それを「わがもの」として執着するな、貪るな、ということは、すべては借り物にすぎないという真実を人の宿命として受け入れなさいということです。そうすれば憂い・悲しみ・不安も去ります。

この世は神の見る夢

余談ですが、ブッダがこの世を「夢の中の出来事」に例えているのも、けだし慧眼ですね。このサイトで何度も触れていますが、この世はある種の仮想現実だと思います。

この世は“情報世界”であり“仮想現実”である
最新の物理学では、物質の本質に関して「超弦理論」という有力な仮説が提唱されている。大雑把にいえば、われわれが素粒子(物質の最小単位)と思い込んでいるモノは、実は「紐状のエネルギーの振動」にすぎず、また...
この世はすでに「セカンドライフ」
前回は、この世界はエネルギーの振動から成り立っているという、最新の物理学の有力な説を紹介しました。そこから、もしかしたら、この世は“情報世界”であり“仮想現実”かもしれませんね、という推論にもって行き...

私たちは何も持たずに生まれ、何も持たずに死にます。なぜなら、この物質世界には本質的に属していない、あるいは属することができない存在だからです。

しかし、それはこの世界の虚構性を意味するのであって、経験それ自体の実在と価値を否定するものではありません。ちょうどビデオゲームの世界が虚構であっても、プレイの楽しみ自体が存在するのと同じです。今ならVRゲームに例えるのが妥当でしょう。所有の概念を捨てれば、代わりに人生の本当の宝・真の目的が見えてくるのです。