スポンサーリンク

仏像の額のコブ――「白毫」(びゃくごう)とは何か?

撮影:Takaaki Yamada

仏像には必ずと言っていいほど額に小さなコブがあります。これは「白毫」(びゃくごう)と言われます。まずはその由来から解説したいと思います。

最古の仏教経典である『スッタニパータ』には次のようなエピソードがあります(以下、中村元訳『ブッダのことば』〈岩波文庫〉P200~P217参照)。

バラモン・バーヴァリに災難が降りかかる

南国のゴーダーヴァリー河の岸辺に住んでいたバーヴァリさんというバラモンがいました。彼はヴェーダに通じ、その上、無所有の境地を得ようと願って、コーサラ族の都からその地に移り住んできた人物です。小さな庵に住み、木の実を食べていました。

ある日、彼が地元で祭りを成し終わった直後、別のバラモンが庵にやって来ました。彼は「足を傷め、のどが渇き、歯はよごれ、頭は塵をあびて」と描写されているように、ボロボロの状態でした。彼はバーヴァリに対して、五百金を乞いました。バーヴァリは彼の健康を気遣いましたが、祭りの際にすべて施し尽くしていました。そこで、そんなお金はないので赦してほしいと、申し訳なさそうに言いました。すると男は怒って、呪詛の作法をし、「いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ」などと脅したのです。

バーヴァリは食事もとれず、うちしおれました。彼が恐れおののき、苦しんでいる様子に同情して、女神が現れ、あの男はただ財を欲しがっている詐欺師だと教えました。バーヴァリは、頭が裂け落ちるという呪いについて尋ねました。しかし、女神もよく知りません。その代わりバーヴァリに薦めたのが、次のようにブッダの元へ行くことでした。

「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられます。(略)かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。(略)そなたは、かれのもとに赴いて、問いなさい。かれは、そなたにそれを説明するでしょう。」

バーヴァリ、弟子たちをブッダの元へと派遣する

バーヴァリは歓喜しました。聞けば、ブッダはコーサラ国の都サーヴァッティーにいるというではありませんか。そこで彼は弟子のバラモンたちを集めて、「そなたらは急いでサーヴァッティーに赴いて、かの最上の人に見えよ」と、告げました。

その人がブッダか否か、判別方法は二つありました。一つは、ヴェーダに伝えられるところの「三十二の完全な偉人の相」。肢体にその特徴が備わっているかどうかを確かめる。もう一つは、そのような人に出会った際に、心の中で、バーヴァリの特徴と彼の抱える問題について問うこと。本当に「目ざめた人」であるならば、それで通じるはずです。

師バーヴァリのために、弟子である十六人のバラモンが北方へと旅立ちました。彼ら自身が瞑想の熟達者であり、それぞれ衆徒を率いるほどのレベルです。彼らは長い旅路の果てに、ようやくブッダのいる山に辿り着きました。そこには、僧衆に敬われ、「獅子が林の中で吼えるように」修行僧(比丘)らに法を説くブッダがいました。

その時、弟子のアジタが見たのは、「光を放ちおわった太陽のような、円満になった十五夜の月のような」ブッダの姿でした。アジタはブッダの肢体に例の偉人の相が備わっているのを見て喜び、傍らに立って、心の中で、例の問いかけをしました。すると、その声なき質問に対して、ブッダは次のように、すらすらと答えたのです。

「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。偉人の特徴と伝説と語彙と儀規とに達し、五百人(の弟子)に教授し、自分の教説の極致に通達している。」

「かれは舌を以ってかれの顔を蔽う。かれの両眉の中間に柔い白い毛(白毫)がある。かれの陰所は覆いに隠されている。学生よ、(かれの三つの特徴を)このように知れ。」

ブッダが答える様を見て、彼らは感激し、また驚いて、合掌しました(*それにしても、バーヴァリさんは五百人もの弟子をもつ偉大なバラモンだったのですね)。どうやら、アジタは、師バーヴァリの抱える問題について、もはや声に出して問うたようです。「先生! それを説明してください。仙人さま! われらの疑念を除いてください」と。するとブッダは次のように答えました。

「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念(おも)いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落させるものである。」

かくして仏典「彼岸に至る道」が誕生する

なんと、もともと不埒な者による脅し文句だったのに、悩み苦しむバーヴァリのために、ブッダはそれを逆手にとって、見事に「教え」へと転化してしまったのです。無明というのは、無知のさらに奥深い表現ですね。つまり、頭が落ちることを心配せずに、逆に明知に達して、頭=無明を落してしまいなさい、と諭したわけです。

たしかに、何千キロも旅した末に投げかけられた言葉が「ただの嫌がらせの言葉だから心配するな」では、平凡すぎてあまり有り難味がないのも事実です(笑)。

アジタは感激し、狂喜しました。ブッダの両足に跪いて、頭をつけて礼をしました。そして、バーヴァリと弟子たちを代表し、その場で帰依したのです。ブッダもまた快くそれを受け入れました。そして、疑問があるなら「何でも質問しなさい」と語りました。

かくして、十六人が一人ずつ順番に質問し、ブッダもまたそれに丁寧に答えていきました。『スッタニパータ』はその結語として、次のように記しています。

もしもこれらの質問の一つ一つの意義を知り、理法を知り、理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから、それ故にこの法門は「彼岸に至る道」と名づけられている。

中村元訳『ブッダのことば』(スッタニパータ)(P237)

「白毫」(びゃくごう)とは額にある「第三の目」のこと

こういった経緯で、一つの偉大な経典がまとめられたわけですね。たしかに十六人の学生たちとブッダとの対話は、英知の結晶と呼べる内容です。それにしても、最古の仏典だというのに、まるで25世紀前のその時の場面が目に浮かぶようではありませんか。

さて、本題は「白毫」でしたね。もともとの由来は、上にあるように、バーヴァリの両眉の中間にある「柔い白い毛」のことです。ちなみに、これは「三十二の完全な偉人の相」の一つなので、ブッダ自身にも同じ身体的特徴があります。

ただ、これは文字通り解釈する以外にも、眉間にあるアジナー・チャクラ(より正確にはアージュニャー・チャクājñā-cakra)を意味すると考えることもできます。いわゆる「第三の目」ですね。

バーヴァリさんはヴェーダの奥儀に達していますし、弟子のレベルですら、瞑想の熟達者と記されています。このような人は、額に意識を集中し続けるため、この部分にある霊的器官のチャクラが活動的になると言われています。これが開花すると、時空を超えた透視能力などを得られるという。実際に透視できる人によると、アジナー・チャクラは振動する花弁の輪であり、白い光が渦を巻いているそうです。だから、ブッダさんも、「バーヴァリはすでに第三の目を開花させている」という意味で言ったのではないでしょうか。

仏像の額にことごとく「白毫」が付けられるようになった元々の経緯は、第三の目を持つことが「悟りを開く≒覚者になる」上で必要条件だったからだと思います。