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仏像の姿形・半眼・微笑、そして鐘の音・・・すべてに理由がある

撮影:Takaaki Yamada

まず、私は仏教の専門家でも何でもないとお断りしておきます。以下はあくまで私の主観に基づく説です。正しいか否かはご自身で判断してください。

前回、仏像の額にある小さなコブ「白毫」(びゃくごう)について説明しました。

仏像の額のコブ――「白毫」(びゃくごう)とは何か?
仏像には必ずと言っていいほど額に小さなコブがあります。これは「白毫」(びゃくごう)と言われます。まずはその由来から解説したいと思います。 最古の仏教経典である『スッタニパータ』には次のようなエピ...

しかし、仏像を見て「これは何を意味するのだろう?」と不思議に思う点は、他にも複数あると思います。たとえば、仮に仏教に対して何の知識も先入観もなく、生まれて初めて奈良や鎌倉の大仏を見た人がいたら、次のように問いかけるかもしれません。

「いったいこの人物は何をしているのか?」と。

すると、私たちは「座禅」というものから説明しなければなりません。しかし、仏像には「坐像」だけでなく、「立像」(りゅうぞう)や「臥像」(がぞう:寝そべっている姿の像)もあります。それぞれの意味を説明できるでしょうか。

顔だけでも、「なぜ額にコブがあるのか」、「なぜ半眼をしているのか」、「なぜ安らかな顔をしているのか(又は微笑しているのか)」、「頭のぶつぶつは何か」など、疑問点を挙げ出したらキリがありません。

それに対して、たとえば「ブッダが瞑想しているところだ」とか「悟りを開いた様子を表している」などと説明することはできます。また、今ならさっとスマホを取り出し、インターネットで検索して、仏像の種類から顔の造作の意味まで手軽に知ることが可能です。それを参考にして質問者に細かなトリビアを披露することはできるでしょう。

私たちは仏像について本当は何も知らない

しかし、それは結局のところ、世間で言われていることを鸚鵡返しにしたにすぎません。それは単に形状やポーズに関する、ただのネーミングであり、辞書的知識にすぎません。たとえば、「悟りとは何か?」と訊き返されただけで、瞬時にメッキが剥げてしまうでしょう。それは表層的な無駄知識であり、本質的な知識ではありません。

もしかすると、私たちは、子供の頃から当たり前のように仏像に接し、身近に親しみながら、本当のことは何も知らないのではないでしょうか。聖徳太子の頃にはすでに仏教が渡来し、今も何十万というお寺が全国各地にある事実を思うと、これは驚くべきことです。

本当は、全てにちゃんとした意味があります。それについて、辞書的にあれこれと解説することは(とりわけネット万能時代の今は)容易いです。しかし、それでは結局、分かったつもりでいるだけで、根本的には何も分かっていない現実に変わりありません。

ちゃんと解説してくれる僧侶や学者が少ないことも問題です。その理由は、おそらく仏像が真に意味するもの――仏教の真髄とも言い換えられる――は、今なお、稀な奇跡的体験によってしか知りようがないからでしょう。つまり、僧侶や学者の大半も、その域に達した経験がないので、本質を説明しようがないのです。

しかも、これは何も日本に限った話ではなく、アジアの仏教圏全体にも、かなり当てはまる現実かもしれません。あまりにも見慣れ、又ありふれた存在のため、かえって自明のことであるかのように錯覚し、本質面が忘れ去られてしまったようです。だから、私たちが普段目にしているのは、どうやら形骸化してしまった仏教のようです。

額のコブは第三の目、座禅は瞑想を表す

さて、偉そうに言ってしまいましたが、もちろん私もその「何も分かっていない」一員です。ただ、本質的知識が失われてしまった現実は自覚しています。いわゆる「無知の知」ですね。それゆえ、「それが本当は何であり何を意味するか」について、改めて調べてみようと思ったわけです。前回の「白毫」の記事はその成果の一つです。

額にある「白毫」は「第三の目」ですね。天目・天眼ともいいます。インドでチャクラと呼ばれる人の霊的器官において、光のエネルギーが渦を巻いている様子を表しています。どうやら仏像の特徴はすべてこういった超常・超越体験と関係するようです。

坐像は「瞑想している姿」を現しています。瞑想については過去に解説しました。

瞑想とは、神を知り、神へと至る方法である
少し古い話題になるが、一神教や創造論をぶった斬ったリチャード・ドーキンス博士の『神は妄想である』(早川書房 07年5月刊)は、欧米で大きな反響を呼んだ。正直いって無教養な私には難しすぎる内容だったが、...

瞑想はただの精神集中とか統一ではありません。それは意識のもっとも内奥に位置している「神」へと向かう行為なんですね。神と繋がることが本来の目的です。

実は、瞑想の熟達者によると、最終的には座禅でなくとも瞬時にして瞑想状態に入れるので、立とうが(立像)、寝ようが(臥像)、同じことらしいです。

ニルビカルパ・サマディと半眼・微笑、そして鐘の音の意味

むしろ、ポイントは「半眼」「微笑」だと思われます。一般的には、半眼は、仏様が外界と内面の両方を同時に見つめている姿だと言われています。そのような行動を象徴していると考えることは、私たちにとってたいへん教訓的で、ありがたく感じられます。私もそれは間違いではないと思いますが、ただ、元々はブッダが瞑想する様子を単に視覚的(見たまま)に表したのが始まりではないかと推測しています。

瞑想の果てに行き着くのは、神(巨大な意識・普遍意識)との直結です。むろん、私も未知の境地です。しかし、インドの聖者パラマハンサ・ヨガナンダ氏が『あるヨギの自叙伝』でその経験を詳しく記しています。彼はその意識状態を指して「ニルビカルパ・サマディ」と表現しています。無我・悟り・宇宙意識・絶対至福の境地です。ちなみに、専門的にはサマディにも段階があるそうですが、ここでは氏に従っておきます。

ヨガナンダさんによると、このニルビカルパ・サマディに入った人が薄目を開けた状態でいる時、独特の目つきをしているそうです。いったいどこを見ているのかよく分からない奇妙な目つき・・・そうです、それが例の「半眼」なのです。

まあ、内と外の両方を見ているというより、本当はひたすら内側に意識を集中しているみたいですが。ただ、「第三の目」で外界もすべて見えている――しかも通常の視覚よりも距離的にも視角的にもはるかに万能という――ので、同時に見えているというのはその通りでしょう。また、瞑想はそもそも覚醒と睡眠の中間の意識状態です。覚めてもいないし、眠ってもいない――半眼はその状態も表しているのかもしれません。

しかも、ニルビカルパ・サマディに入った人は、あまりの多幸感のために笑みを浮かべるそうです。誰でも幸せだったら自然と唇も吊り上がるでしょう。『あるヨギの自叙伝』にはその写真も掲載されています。これで仏像の「微笑」の判明です。やはり、元々は絶対至福の境地にある覚者を視覚的に表現したものと考えたほうがよさそうです。

結局、仏像についてのあれこれは、すべて瞑想の究極状態と関係しているわけです。ただし、この観点から言うと、頭のブツブツ「螺髪」(らほつ)だけは、それほど重要ではないような気がします。悟った証であり、知恵の象徴(しかも右巻きの渦になっている)とも言いますが、瞑想とは直接関係がないようです。もしかすると、単にブッダがアフロヘアだったことが、こういう形で伝えられているのかもしれません。

最後に、寺院にある「鐘」について記しておきたいと思います。そもそも、なんで境内に鐘が据えられているのでしょうか。どうやら、もともとの意味は、やはり瞑想の究極状態に関連しているようです。あの「ゴォーン」という音は、「オーン」という響き、すなわち「オーム音」を表現しようと意図したものです。これは宇宙の原初音と言い伝えられ、瞑想によって神と直結した者だけが内側で“聴く”ことができるそうです。