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聖典はVRゲームの攻略本である

撮影:Takaaki Yamada

ヒンドゥ教では神が世界を創造した理由を「戯れ」であると説明しています。

すべての始まりが、「ああ、退屈だ、何かして遊びたい」という神の想いであった、というのは、一見すると信じ難い話です。霊的な人ほど、「人生や現世は魂の修行の場である」と思い込みたがります。むろん、それは間違いではありません。しかし、一方で、もともと完全だった神が、わざわざ不完全な「多」に化けた動機や必要性をうまく説明することができないのも事実です。つまり、それは究極的には目的ではないのです。なぜ神がこの世を創る必要があったのか、その動機を推察することが鍵を握ります。魂の修行というのは、たしかにその通りですが、結局はそういう「遊び」なわけです。

人生はVRゲーム内でのRPG(ロール・プレイング・ゲーム)と同じ

「小さな神様」である私たちもまた同じ性(さが)を持っている真実を思えば、それほど荒唐無稽な話ではないことがよく分かります。私たち大人は生活していくために働かねばなりませんし、それが結構な時間潰しになっていますが、その義務を負わない子供たちは、とにかく何かして遊ぼうとします。ここに神様の本来の性質がもっともよく現れています。大人でも定年になれば、結局「何か暇潰しをしよう」とします。仕事を抱えている人でも、オフの日は、大自然の中で山登りや釣り、スキーやスキューバダイビングなどに夢中になることで“童心に帰る”ことができます。

神様の凄い点は、そのために宇宙を創ってしまったことです。もちろん、それは時間・空間・物質などで構成されていますが、神様にとっては空想の世界です。それはしばしば「夢・幻・虚構・仮想現実」にも例えられます。神様はその中において「多」となり、また「一」へと帰還するゲームを始めたわけです。そのプロセスにおいて、自ら創造したバーチャル世界の中で戯れているわけです。まさに、それが私たちなわけですね。

私たちが退屈に耐えられないように、神様もまた疑似体験を欲するわけです。だから、最近、私たちはVRゲームを作って“その中で楽しむ”ようになりましたが、それは無意識のうちに神様を真似ているからです。むろん、神様の創ったVRゲームに比べれば、私たちのそれはまだまだ児戯に等しいと言えます。なにしろ神様のそれでは、記憶を消して自分が本当は何者であるかを忘れることもできます。だから、本当は疑似体験なのですが、ますますリアルな体験だと錯覚するわけです。そして「この世界の不思議」に魅了され、「誰が創ったのだろう?」と思いを巡らせ、様々な謎を解こうとします。

なんと壮大で素晴らしく、そして巧妙な仕掛けでしょうか!

あまりに難易度が高いゲーム

「一」が「多」となり、また「一」へと帰還するサイクルは、地球上の水の循環とよく似ています。海から水蒸気が立ち上ると、それが風に乗って山へとぶつかり、雨を降らします。雨は次第に集まり、小川に注ぎ、いくつもの支流と合流して、やがて大河となって再び海へと融合します。これは私たちが神へと融合する原理と同じです。

しかし、両者には一つ違いがあります。水は自然に身を任せれば、いつか海に帰ることができます。それに対して、私たちは自己努力を要求されます。

「一」から「多」になったわれわれは、その瞬間から無意識のうちに「一」へと帰一しようとします。ちょうど赤子が母のぬくもりを求めるように。そうやって私たちは「神へと向かい合一したい」という根源的動機に突き動かされ続けます。そういう意味で、すべての人々は神を目指して歩んでいる巡礼者です。たとえどんな悪人であろうとも。

しかし、その根源的動機は、言語で明示されているわけでも、誰かが教えてくれるわけでもありません。形がなく、目に見えない真理なので、発見することすら容易ではありません。それは自分の中にありながら、自分で気づくのが難しいものです。

仮に「内なる声」に耳を澄ますか、宗教や哲学がうまく代弁してくれると、人は人生における明確なガイドを得ることができます。しかし、たいていの人々は、それが真理であることを漠然と知るに留まり、どうしてもこの世界で“現実に”肉体として生きていくために必要な生存本能や世俗的欲求を優先させてしまいます。それはやむをえない面がありますが、根っこを見失う行為です。とりわけ初期の人間ほど、外界ばかり見て、己の内側を見ようとしません。それゆえ、人は根源的動機が示す道から外れ、迷い、何のために生きているのか分からなくなります。内なる声は、あまりに微妙なのです。

まあ、それもまた「仕掛け」なのでしょう。簡単にクリアできるようであっては、ゲームは面白くありません。だから、「多」からすれば、神に帰一するまでは、長い長い道のりになります。神様のレベルでは時間は存在しませんが、「多」は時間を感じる仕組みになっています。しかも、その過程ではあらゆる経験が待ち構えています。楽しいことばかりではありません。悲惨で、残酷な経験も多々あります。それがゲーム世界の中の出来事である真実に気づかない間は、文字通り、悲惨で残酷であります。

だから「裏技」もそっと作られた

このように、神様が非常にうまく作ったため、「多が一へと帰還するゲーム」は波乱万丈の大冒険と化したのです。全力を尽くさねば、肉体として生きることすらままならないほどです。個人の立場だけでなく、集団――家族・地域・国家・惑星――としても、実に難易度の高いゲームです。私たちの中にいる神にとっては、最高のゲームでしょう。

私たちは唯一、精神性を向上させることによってのみ、この難易度の高いゲームをクリアし、この世界を卒業することができます。それが「解脱」と呼ばれるものです。

むろん、それは容易ではありません。何十回か、何百回か分かりませんが、かなりの生を跨ぐようです。しかも、ある程度、獣性を脱した状態にまで霊的成長しないと、「内なる声」に耳を傾けようともしません(サイババさんによると、苦しみはそのきっかけになるそうですが)。そうやって、私たちは輪廻転生を何度も何度も繰り返すわけですね。

ゲームに例えれば、それはエンディングに辿り着けず、またプレイをやり直す行為にも似ています。たしかに、当初は波乱万丈で面白いでしょう。しかし「巡礼の旅」とて、道に迷い、同じところをぐるぐる回ってばかりで一向にゴールできないとなると、いい加減、嫌になります。「そろそろ卒業したい」という“解脱願望”が強まるわけです。

しかし、このゲームは本当に難易度が高い。そこで、苦しむ私たちに対して、「どうやったらゲームを攻略できるか」というヒントが授けられました。それがヒンドゥ教や仏教の聖典なんですね。たとえば、私たちに馴染みの深い般若心経は、「この世は実体のない仮想現実なんだから、執着しても空しいだけなんだよ」と、そっと「秘密」を教えてくれています。そうやって世界の本質を知り、執着を捨てることが「解脱」に繋がるわけです。

人は遅かれ早かれ、「神の白昼夢」から目覚め、抜け出す時が来るのです。