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働くことの意味 3・なぜ人は働くことで救われるのか

出典:Pixabay CC0 Public Domain

犬や霊長類を観察しても分かるように、彼らにも「感情」や「心」はあります。しかし、獣は「魂が渇く」ことはありません。食べる、眠る、性交する・・それだけです。

対して、人間はそれだけでは決して満たされることはありません。感覚的な喜びはつかの間のもので、しばらくしたらまた「渇き」がきます。

すぐ前の生が動物だったという人は感覚的な喜びばかり追求しがちですが、それでもやはり「何か違う」と空しく思います。



人であるがゆえに生きる意味や理由を追い求めてさ迷う

人が生きる意味や理由を追い求めるのも、このような「人としての性」から来ています。

しかし、容易には分かりません。なぜなら、私たちが人生と呼ぶゲームは難しいのです。というより、元々は、神であった私たちがあえて難しくしたのです。だから、人は迷い、感覚的喜びに逃げ、執着し、しかし空しく苦しくなり、また意味を求め・・・ということを繰り返します。その「迷い・苦しみ」もまたゲームの醍醐味なのです。

かくいう私も迷っている人間の一人ですので、人様に対して上から目線で「これが正解だ」などと道を指し示すことのできる資格はありません。

ただ、完全な解決策ではありませんが、経験上「とにかく働く」ことによって、「生きる意味がある程度、後からついてくる面がある」とは感じています。

「生きる意味」とまで言うと少し大げさかもしれませんが、何でもいいから働くことにより、社会の中に自分の居場所を見つけ、何らかの役割を果たしているという自覚を持つことができます。そのことが「食べる・眠る・性交する」以外の、社会的生き物としての人間の欲求を満たし、人生に意味を与え、良い意味での誇りをもたらしてくれます。

働くことは最高の精神安定剤であり、生きる意味をもたらしてくれる

働くことは、生活の安定をもたらし、社会との結びつきをもたらし、それゆえ精神の安定をもたらしてくれるのです。しかも、それは副作用のない精神安定剤です。

世の中には、昔から定年という素晴らしい知恵があります。現代では制度化されていますね。定年まで一つの仕事をコツコツとやり遂げた、あるいは、転職を繰り返したがとりあえず定年までは一所懸命勤め上げた、という人は、たいてい何がしの達成感を得られるようです。

それは今生における一つの使命を果たし終えた、という内的満足に等しいのかもしれません。その内側から沸く喜びこそ、何にも変え難い真の報酬です。

逆に、働けるのに怠けている人は、この真の喜びと報酬を逃していることになります。この世がゲームであることは、繰り返し指摘してきました。

あなたはゲームをプレイする立場として、あなたの分身たるキャラクターがゲームの世界内で「楽」をしていて、冒険も戦いもせずにゴロゴロしていて、それで楽しいですか?

おそらく、それほどつまらないプレイはないでしょう。

人生も同じです。怠けて、楽をしたところで、決して心の底から楽しいわけではありません。内なる声に耳を傾ければ、「空しい、つまらない」という言葉が聴こえてくるはずです。

それと労働とどう関係があるのかと思われるかもしれませんが、働くことは、とりあえず「プレイ」に値する行為といえるのです。

それでも救いにならない人へ

社会とは何でしょうか。それは冷たい機構ではありません。「その他大勢の人々」と同義語です。だから、社会の一員として働くことは、他者に対する奉仕も同じです。サイババさんは「他者への奉仕は、じつは神への奉仕なのだ」と断言なさっています。

なるほど、道理で働くことで自分が救われるはずです。なにしろ、それは神様への奉仕なのですから。その本質は神聖であり、行為自体が何にも変え難い報酬です。

ところで、世の中には、こういった条件を達成した上で、なおかつ生きる意味や目的を探し求め、あれこれと悩み苦しむ方もいらっしゃいます。働くことや、社会における居場所を見つけることだけでは、「何かが足りない」というわけです。

そういう方は、もはや世俗を超え、霊的真理を一心不乱に希求する段階なのかもしれません。そういう人こそ、『バガヴァッド・ギーター』や『スッタニパータ』を紐解きましょう。サイババさん、ヨガナンダさん、マハリシさんの著作を読みましょう。

霊的真理を探し回る必要はありません。それはすでに説かれているのです。