スポンサーリンク

働くことの意味 4・結果に捕らわれないとは神に捧げることである

出典:Pixabay CC0 Public Domain

さて、労働論の四つ目、(たぶん?)締めくくりです。

サイババさんは次のようにおっしゃっています。

『ギータ』は、結果に執着せず行為をなせと教えます。生きるそれぞれの立場に応じて、人には義務としてなすべき行為があります。それを、それにふさわしい精神で行うとき、行為をしつつ、しかも束縛されることはありません。すべての行為を、舞台劇の俳優が演ずるように、役割と自分自身を切りはなして考え、自分自身をあまりにも役割に密着させぬように注意しなさい。すべては単なる芝居であり、至高神があなたに役割をあたえたのです。このことをよく覚えておきなさい。自分にあたえられた役割を見事にやりこなすこと、それであなたの義務は完了します。「かれ」が舞台劇の筋書きをかき、「かれ」がそれを楽しんで見ています。

『黄金の宇宙卵』(P198~199)

働くという行為自体と同じくらい大切なことは、「どんな気持ちでそれを行うか」であり、また「成果に対してどんな態度をとるか」だと思います。



結果に捕らわれない

仮に自分の成し遂げた成果(の大きさ)に対してプライドを持ちすぎ、社会的地位や経済的結果について自慢に思い、世間や部下、扶養親族に対して思い上がった気持ちでいたら、霊的には何の意味もありません。本当は、それはあなたの役柄にすぎません。しかも、それすら今生でたまたま与えられたものです。

興味深いことに、京セラの稲盛和夫さんも同じことをおっしゃっていました。

逆に、自分が人生で成し遂げた成果と呼べるものがあまりに無さすぎて、自嘲したり卑下したりする人もいるようです。私などは、どちらかと言うこと、こちらの部類です。しかし、これもまた、よくありません。劣等感と優越感の根は同じです。

要は、どちらも「結果に執着する行為」なんですね。世俗的に大きな結果が出せたとか、小さな結果しか出せなかったとか、そんなことに過度にこだわり、自慢したり卑下したりする価値観自体がよくありません。

聖典『バガヴァッド・ギーター』は「果実を欲することなく行動せよ」と説きます。果実を考えることなく、ただ義務なるがゆえに粛々と行え、と。

果実を欲することなく行動せよ
私たちは何か行動を始める時、ついあれこれと事前に成果を想像して、それを欲してしまいます。 たとえば、何か新商品を開発する時は当然それがヒットすることを期待するし、FXや株なら楽してお金が儲かるこ...

大事なことは「一所懸命にやったか?」「義務として行ったか?」ということです。そのことのみ留意していれば、たとえどんな結果が出ようとも満足であり、結果に束縛されることはないはずです。

役割に優劣をつけず、俳優が演じるがごとく

世の中には無数の仕事があります。荷物の運搬、建設現場での肉体労働、工場での単純作業、清掃、郵便物や新聞の配達、食堂での調理、介護、販売員・・・あえて非頭脳職を列挙しましたが、いずれも社会における大切な仕事であり、役割です。あなたがそれを行うことによって確実に恩恵を受ける人々がいます。

社会の「頭脳」に当たる知的な専門職や管理職だけが「偉い」わけではありません。人間は頭で歩いたり、モノを掴んだりできますか。どんな仕事も、人体における各パーツの役割を果たしているのです。つまり、機能の違いでしかありません。

そういう意味で、働く人はすべて偉いのです。どんな仕事も立派なのです。優劣の価値観をつける人は愚かで思いあがった人なのです。

仕事に優劣をつけるのはやめましょう。その間違った価値観で、「上を見て劣等感、下を見て優越感」を抱くのも止めましょう。他人と比較する必要はありません。

大切なことは、あなた自身がどうするかです。どのような仕事であれ、それは社会への奉げものとなります。そして、いったん従事する以上は、己の役割と考え、結果に捕らわれることなく、ひたすら社会に対する義務として行うことが重要です。

すると、まるで大地に根を下ろしたように、あなたの魂はその役割を通して社会としっかりと結びき、そのことが大きな満足感をもたらしてくれるでしょう。

ただし、サイババさんもおっしゃるように、根本的にはその役割と真の自分自身と切り離して考えることが必要です。あくまで、それは今生における舞台の役柄にすぎません。だから、俳優が真剣に役を演じるようにやればよいのです。それによって「あなたの義務は完了します」と、サイババさんはおっしゃっています。

すべてを神に捧げる

しかしながら、私たちは聖人君子や修行僧ではありませんし、現実には世俗の様々な束縛を受けています。結果に執着することなく粛々と己の役割をこなすべきだ・・と頭では思っていても、実際にそう徹するとなると、難しいものがあります。

サイババさんは、同じことを、少し表現を変えて説明しています(傍線筆者)。

「結果にとらわれない行為」とは、何もしないということではありません。何かをするときに、誰に対しても変わらない態度で接し、自分の仕事が生み出すどんな結果も求めずに、自分のすることのすべてを神に捧げれば、それは「結果にとらわれない行為」になります。それは世の中の務めでも、儀式などの神さまへのお勤めでも同じです。

『神の詩 サイババが語る「さとり」への道』(中央アート出版)P572

自分のすることのすべてを神に捧げる・・・要するにこの感覚ですね。ここに心の焦点を当ててさえいれば、極論すれば他のことは一切気にしなくともいい。自動的に結果に執着しなくなり、人としてなすべきことを成した状態へと行き着く、というわけです。

たしかに、「何もかも神様にプレゼントします」という感覚なら、少なくともヘンなものを捧げようとか、悪事を捧げようとは思わないはずです。下品な言い方ですが、「見返りを求めない精神」とは「神に何もかも全部タダでくれてやれ」ということです。

インドの哲学では執着を放棄することで解脱へと繋がっていくと説きます。逆説的ですが、結局、人はそれによって最大の褒美(結果)を得ることができるようです。