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これからはインド哲学が精神面で世界をリードする

出典:www.kt-travel.com

一般に、「輪廻転生」の思想は、仏教由来であるとか、オカルトであるとか、そんなふうに見なされています。それは間違いです。

実際はヒンドゥ教の「教義」なんですね。一応は世界最古級の宗教です。

ヒンドゥ教の精髄と言われる聖典『バガヴァッド・ギーター』には、人間が繰り返し生まれ変わることと、肉体は「仮の姿」であることが説かれています。

この考えは仏教にも受け継がれました。また、ユダヤ教エッセネ派も同じ様な考えを持っていました。今でもカバラの一部として受け継がれています。

このようなインドの神霊哲学の立場にたつと、究極の人間平等思想を獲得することができます。私たちの肉体が仮想世界における「仮の姿」でしかないということは、今風にいえば、バーチャル・リアリティ・ゲームの中の「アバター」と同じということです。私たちは何もかも忘れてこの世に生まれてくるので、それを本当の自分だと錯覚しているに過ぎません。実際は、生まれ変わるたびに「仮の姿」も変わります。

つまり、輪廻転生のたびに、民族や人種、男女の性別さえも変化するということです。どの時代のどの「アバター」に生まれるかは、おそらく神の采配です。その人の希望がどれくらいの選択権・決定権を持つかは、私にも分かりません。

だから、私たちは誰もが過去に女であったり男であったりするわけです。

民族や人種も超越します。ある時代ではフランス人でしたが、別の時代では中国人やアフリカ人でした。また、ある時は支配的な民族や人種に属していましたが、別に時には、逆に苦しい被支配の立場に置かれている民族や人種でもありました。

ある時代には、強靭な男性の肉体を持って生まれましたが、別の時代には弱々しく小さな女性の肉体を余儀なくされました。

ある時代には特権を欲しいままにした貴族であり富者でしたが、別の時代には生涯にわたって社会の下層に据え置かれた貧乏人でした。

そうやって私たちの本質である魂は、何十回もの輪廻転生を通して、ありとあらゆる役柄を経験します。ちょうど俳優の修行のように。これは魂にとって非常に学習効果の高いレッスンであると同時に、とてもエキサイティングな体験なのです。

当然、こういったヒンドゥ教の立場にたてば、民族差別や人種差別は、まったくナンセンスであることが分かります。ある人種や民族を見下すことは、過去や未来の自分を馬鹿にする行為に他ならないからです。そればかりでなく、人の外見や容姿そのものが仮想世界における「仮の姿=アバター」に過ぎないわけですから、馬鹿にしたり優越感を抱いたりする思考は、まったく無意味で愚かであることが分かります。

かのヨガナンダ先生は、人の外見の中で輪廻転生に際しても受け継がれるのは「目」だけであると言っています。どうやら目には人間性が顕れるようです。

もっとも、民族・人種・性別を超越して人が生まれ変わるといっても、与えられた「役割」に対しては忠実でなければない、という「ルール」があります。

これはまたの機会に説明しますが、ちょうど俳優が己の役柄に徹しなければならないようなものです。役割を放棄すると、その「人生」も、「世界」すらも崩壊します。

ある意味、私たちは役柄を演じ切るためにこの世に生まれてくるようなものです。



カースト制度の過ち 霊的真理は善用しなければならない

さて、中には「インドという国はカースト制度に代表されるように差別の権化のような国ではないか」と、疑問に感じる人もいるでしょう。

これは事実と認めざるをえません。なぜ究極の人間平等思想を生んだ国が、現実には世界でも最悪級の差別に満ちた社会になってしまったのでしょうか。

実は、その神霊哲学の「受け手側」の問題なんですね。

キリスト教、仏教、イスラム教など、どのような種類の宗教が布教した国であっても、世俗の権力者は、その宗教を必ず政治的に利用します。自分たちが容易に民衆を支配できるように、組織・教義・儀式などを都合よく作り変えてしまうんですね。キリスト教(カトリック)においては、宗教家自身が強大な権力者に変貌しました。

ヒンドゥ教も例外ではありません。広大な教義の中で「輪廻転生に際して前世の霊的な負債が勘案される」という、そこだけを切り取って、権力者側(王侯貴族と高位聖職者たち)はヒエラルキーの固定化に利用しました。カーストの下位層を定めるということは、逆にいえば上位層を固定化して特権を永続化させることでもあります。

こうして、ヒンドゥ教の教義に基づくというより、その教義をトリミングすることによって、王族や高僧たちは、被差別層を固定化し、彼らが社会矛盾の改善を諦め、容認し、無気力でい続けるように仕向けたのです。今、眼前にある差別や搾取などの問題に取り組むよりも、より良き来世を渇望することで現状を肯定するように洗脳したのです。

その政治利用の悪しき結果が、現代まで残るカースト制度というわけです。

ある意味、究極の平等思想ゆえに、悪用誤用されることによって、逆に最悪の差別思想になってしまったと言えるでしょう。

しかし、良薬が毒に化けてしまったのは、権力側の政治利用に拠るものであり、受け手側の人間の未熟さに起因するならば、教義自体の罪ではないということです。

両刃の剣になるということは、逆にいえば、正しく利用すれば、素晴らしい道具になるということです。私たちの中の「悪用する心」さえ取り除けば、インドの神霊哲学は「21世紀時代の人類の教え」になる可能性すら秘めています。

霊的真理には、古いも新しいもありません。それは時空を超えた真理です。

それは、「すべての人間の本質はアートマンである」と教えています。そして、「個々のアートマンは大霊ブラフマンと本質的に同じである」とも教えています。

つまり、万人は本質的に平等であるばかりか、私たちが神や創造主と呼ぶ、この世界の運行を司る存在とも本質的に同一であると、ヒンドゥ教は説くわけです。

つまり、本来は差別と正反対のことを教えているわけです。

「すべての人は究極的には神様である」という教えは、無意識的なシントーニスト(神道教徒)の多い日本人には、とてもなじみやすいものです。

というか、根本的には神道と同じです。神道では「八百万の神」と言いますが、これは「すべては神様である」「神は遍在である」と言っているのと同じです。

ヒンドゥ教はそれに輪廻転生などの思想を付け加えて、形而上の真理をできるだけ言語化することに成功した、非常に合理的な教えと言えるでしょう。かのサイババさんもおっしゃっています。「人類はもっとヒンドゥ教から学べるのだ」と。

私たち人類が、差別意識の根源を滅し、民族や人種の「違い」を乗り越えて「一つの種」という根本認識へと至る上で、インドの神霊哲学に立ち返ることは欠かせないと私は確信しています。その太古の教えは、「すべての人の人権及び基本的自由が尊重され、すべての人が評価され尊重される社会」を目指す現代の人権思想や人権教育と対立するどころか、むしろ補完し、より豊かにし、完成させるものなのです。

なぜ、人間という種にとってもっとも重要である霊的真理、それも最高レベルのものが常にインドの大地で芽吹くのか、不思議ではあります。私が思うに、これこそ偶然ではなく神の采配なのでしょう。一般に私たちは、インドに対する強い偏見のせいで、そのような事実を素直に受け入れることができない。しかし、メガネの曇りを拭くならば、人類の救いとなる英知がインドにあることが、きっと分かると思います。