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霊的真理から見ると戦いは絶対悪ではなく平和主義は絶対善ではない

出典:Crystalinks Hindu Akshardham temple in South Delhi

聖典「バガヴァッド・ギーター」は、古代インドの長編叙事詩「マハーバーラタ」から、とくに霊的に価値の高いパートを厳選したものです。

マハーとは偉大、バーラタとは古代インドのことです。

描かれているのが、もともと同じ大王の子孫であるパーンダヴァ一族とカウラヴァ一族の争いです。両一族は王位継承をめぐって内戦へと導かれてしまいます。

決戦の地が聖地クルクシェートラでした。インドのかなり北方にある地域です。

古代インドにおける「関が原の戦い」みたいなものでしょうか。

これは実話であると伝承されています。両軍が戦場で対峙した時、パーンダヴァ軍の王子アルジュナは戦車(チャリオット)に乗っていました。その御者を務めていたのが神の化身クリシュナです。彼は馬を操り、両軍の中央に出ました。

敵陣営を見たアルジュナはたいへんな葛藤に襲われます。なにしろ「敵」といっても見知った親類縁者ばかり。彼は苦悩します。そして、血縁同士で殺しあうなんて嫌だ、大罪ではないか、私は戦わないと言って、いったん武器を捨ててしまいました。



なぜクリシュナ神はアルジュナに「戦え」と言ったのか?

これに対して、神の化身は「戦いなさい」と諭します。しかし、アルジュナは、「彼らを殺すくらいなら乞食のほうがましだ」と、ぐずぐずと嘆きます。

クリシュナは切り出します。バガヴァーンとはクリシュナのことです。

バガヴァーン語る

博識なことを君は話すが

悲しむ値打ちのないことを嘆いている

真理を学んだ賢い人は

生者のためにも死者のためにも悲しまぬ(2章11節)

クリシュナは、この世界と人間の秘密を長々と語って聞かせました。

その深遠な内容が後世「バガヴァッド・ギーター」と呼ばれたわけです。

出典:クリシュナ意識国際協会:Iternational Society for Krishna Consciousness

クリシュナは最初に魂の不滅と輪廻転生について語り、戦わねばならない動機のほうは、ややその後で語ります。なにゆえ彼は「戦え」と諭すのでしょうか。

クリシュナは「武人」としてのアルジュナに対して、次のように言い放ちました。

だがもし、この正義の戦いに

きみが参戦しないならば

義務不履行の罪を犯すことになり

武人としての名誉を失うのだ(2章33節)

この部分は、神霊哲学というより、軍人としての心構えのように思われます。

単純にいえば、クリシュナは次のような内容を語ったわけです。

この戦いはこちら側に大義名分がある、

おまえは戦士ではないか、

だから戦うことは義務である、

もし戦わなければ武人として失格だぞ、

敵もおまえが逃亡したと思って臆病者と軽蔑し、

人々は後の世までおまえの汚名を語り継ぐのだぞ、

これほどの恥が他にあるか、

ただ義務なるが故に戦うのだ、

つまり、クリシュナが「正義のある戦い」なら肯定していることが分かります。そして、今風にいうなら「軍人は戦うことが使命である」と断言している。

平和主義は相対的な真理

このように、クリシュナと「バガヴァッド・ギーター」は、決して絶対的な平和主義の立場をとっていません。むしろ、現代と変わらない軍人精神を説いている。

もしかすると、今風の平和主義の立場からすると、何が何でも任務を拒否して武器を取らないことが賞賛されるかもしれません。

しかし、それは本当に正しいことでしょうか。

仮に自分が侵略や無用な虐殺などの「大義のない戦い」に加担している場合なら、それは人間として正しい行動と言えると思います。そのような悪しき戦いへの参加を拒み、全体的な空気に逆らって戦争を批判することは、たいへん勇気のある行動です。

しかし、逆に侵略や虐殺にさらされている側なら、どうでしょう? 抵抗のための戦いまで拒否することは、本当に勇気ある行動と言えるのでしょうか。

たとえば、自衛のための戦いまで否定するなら、1937年から旧日本軍の本格侵略を受けた当時の中国が行った戦いも、当然、否定されねばなりません。

つまり、当時の中国人民は、旧日本軍の侵略に対して立ち上がるべきではなかった、あくまで非暴力・不服従の抵抗運動で対抗するべきだった、ということになります。

果たして、そのような考えは正しいのでしょうか。

普遍の霊的知識を追求するこのサイトでは、あまり政治的な話はしたくありませんが、そのような態度は平和主義どころか、愚かな卑屈であり、悪巧みをする側にとって極めて都合がよいことから、かえって戦争を誘発しかねない危険性すらあります。

そういう意味で、平和主義とは、決して絶対的な真理ではなく、あくまで「相対的真理」と言うことができるのではないでしょうか。