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霊的観点から見ても愛国心が正しい理由

出典:Pixabay CC0 Public Domain

私はこれまでの記事で次のように書いてきました。

私たちはみんな神様で、本質的にはいかなる優劣も存在しない。

この世は単なる仮想現実に過ぎない。

人は性別・民族・人種の枠を超えて生まれ変わる。

すべては「神のリーラ(遊戯)」にすぎない。

ま、全部、聖典「バガヴァッド・ギーター」や、インドの偉大な聖者たちが説く神霊哲学の受け売りですけど(笑)。

そうすると、やれ日本人だ、中国人だ、アメリカ人だ、ロシア人だ、ブラジル人だ、イラン人だ、コンゴ人だ、という民族や国籍に何の意味があるのでしょうか。

やれ白人だ、黒人だ、アジア人だ、という人種に何の意味があるのでしょうか。

何もないはずです。なにしろ、私たちの本質は姿形のない霊的な存在ですから。

しかも、性別の違いすらも超えて生まれ変わる――ただしこれはそう頻繁ではないみたいです――ならば、私たちの常識的な人間観そのものが揺らいできます。

だから、異性や、特定の民族や人種に対して強い偏見を持ったり、馬鹿にしたりする行為は、実際は、過去や未来の自分をも否定する愚かな行為に他なりません。

そして、それについて堅く信ずることのできる神霊主義者ならば、そもそも性別・民族・人種に基づく差別意識など起こりようがないわけです。

逆にいえば、唯物論を頑なに信じている限り、いくら人権思想を学ぼうとも限界があると思われます。そもそも自然科学はとっくの昔に唯物論を否定しています。



愛国心なんていらない?

すると、たまたま輪廻転生でその時に所属することになった民族や国家を愛するという感情や行為に、いったい何の意味があるのでしょうか。

生まれ育った国だからという理由で愛する、あるいは特別に他の国よりも愛するという発想は、とても馬鹿げたことではないでしょうか。

つまり、愛国心なんて邪魔なだけではないか。捨て去るべきではないか。

ところが、サイババさんは「人は愛国心を持たねばならない」と断言しています。ガンジーやチャンドラ・ボースを愛国者として称えています。

すると、サイババさんの言っていることは矛盾しているのではないか・・。

そうじゃないんですね。

実は、この問題は、私の悩みというか、長年の葛藤でもありました。

いくらインドの神霊哲学に傾倒し、輪廻転生などの霊的知識を堅く信じたところで、現実には、私の中に祖国を愛する気持ちがある。

日本人に生まれてよかった、という気持ちがある。

それは極めて自然な感情です。私は普段とりたてて愛国者を自称することはないし、また“愛国者気取り”にも抵抗があるほうなのですが、それでも他国の人から日本と日本人が侮辱されたら、怒る気持ちが自然と沸いてくる。

サイババさんも、民族や人種による差別を強く戒め、「人類はみな一つ」と説く一方で、「愛国心を持ちなさい」とも説く。だから、民族とか国籍、愛国心というものを、どういうふうに捕らえればいいのか、ずっと迷っていたわけです。

答えのヒントは、やはり聖典「バガヴァッド・ギーター」にありました。

クリシュナが言いたかったこと

神の化身クリシュナがアルジュナ王子を諭したクルクシェートラの場面については、すでに何度か記事にしました。

クリシュナは、相手が親しい一族や友人だからという理由で戦いを放棄したアルジュナに対して、要約するなら、次のような言葉を投げかけ、叱りました。

「相手が親類縁者だろうが、正義の戦いである以上、軍人であるおまえは絶対に参戦しなくちゃならん。それを放棄するなら義務不履行の罪になるぞ」

もう脅しです。絶対平和主義者が聞いたら、卒倒しそうなエピソードですね。インドの神霊哲学は、戦争を絶対悪とも、平和を絶対善とも見なしていないわけです。

それはあくまで状況によって是非の変わる相対的な価値観に過ぎないということです。

非常に単純な話をすれば、侵略に対する自衛のためなら戦ってもいいし、とくに職業軍人なら戦わねばならない、ということです。

日本にはそれすら全否定することが“平和主義”だと信じる人たちがいます。

彼ら的には、旧日本軍の侵略を受けた時に抵抗の戦いをした中国人は間違っていたという理屈になります。あるいは、ナチスの占領下にあったヨーロッパのレジスタンスでさえ戦いに訴えるべきではなかったということでしょうか。

ただし、祖国防衛は職業軍人の義務といっても、現実に組織の命令に背けない彼らは侵略戦争にも駆り出されるわけで、そういう意味でこれは単純な例えにすぎません。

まあ、これ以上は趣旨から反れるので、またの機会とします。

話をもとに戻します。要するに、神の化身クリシュナが何を言いたかったかと言うと、「自分の役割を果たせ」ということなんですね。

役割というのは、むろんこの仮想世界における仮の役割のことです。

私たちが役割に徹しなければこの世界そのものが成り立たない

ある人生――しかも繰り返される輪廻転生のたった一つにすぎない――における性別、民族、国籍、人種といった属性は、「アヴァター」の単なる衣服にすぎません。社会的地位や職業ともなると、それ以上の衣服といっても過言ではありません。

では、根源的にはそうだからといって、その衣服を「まったく無意味なもの」と見なしてよいのでしょうか。ここがポイントです。

そうじゃないんですね。ちゃんと意味がある。仮にまったく意味がないとしたら、そもそもこの仮想世界そのものが創造されることはなかったでしょう。

仮にあなたの前世が戦前のインド人だったとする。

そして、インドの自由・独立・尊厳がイギリスの帝国主義によって踏みつけられている現状を目の当たりにして、ひどく怒りを感じたとする。

祖国のために尽くしたい、侵略者を追放したい、と思ったとする。

そしたら、「インド人という属性は、たまたま今生におけるアヴァターとしての衣服に過ぎない」などと達観することは、よくないんですね。

なぜなら、インド人として生まれ、生きることが、今生におけるあなたの「役割」であり「役柄」だからです。だから、あなたはインド人として、祖国のために戦うことが正しいのです。むろん、戦いといっても、ガンジーの非暴力・不服従運動も“戦い”の一つの方法でしょう。武力に訴えずとも、同胞の社会的地位の向上のために生涯を捧げるなら、それもまた戦いでしょう。むろん、ボースと共に武器をとることも。

要は祖国を「家族」と考えればいい。家族が侮辱され、虐げられている時に、あなたは何もしないでいるのですか、という話です。

この世は単なる仮想現実であり、もともと名も姿形も持たない私たちがアヴァターとしてログインしている状況は、究極的にはたしかにただの虚構かもしれません。

ある意味、私たちはみな、神様がシナリオライターを務める「劇」の登場人物です。しかし、その芝居における役柄について、それがただの役柄に過ぎないからと見なして、演じるのを辞めてしまったら、その時点で芝居そのものが崩壊します。

それはこの世界の「意味」の崩壊を意味します。神様にしてみたら、何のために世界を創造したのか分からない。私たちが役割に徹しなければ、この世界そのものが成り立たないのです。だから、人類は一つの種であり家族であるという認識を根本に持ちつつも、私たちが今生でたまたま与えられることになった役柄、またそこから来る郷土愛や愛国心を捨て去るべきではなく、あくまで自分の中で両者の共存を模索すべきです。

たしかに、バランスを取るのは難しい。他国から侵略や不当な侮辱を受けた時は、怒り、時には立ち上がらねばなりません。しかし一方で、逆に自分がそれをやる側に立つ間違った愛国心は避けねばなりません。ここが非常に難しい。

そこから来る悩みや葛藤もまた“ゲーム”の醍醐味なのかもしれませんが・・。