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各人が「役柄」を演じてこそ「この世VRゲーム」が成り立つ

当記事は、先行するこちらの記事と互いに補完し合う関係にあるので、一部、内容が重複する部分もありますが、ご容赦ください。

インドの神霊哲学に学んだ私は、次のように述べてきました。

私たちはみんな神様で、本質的にはいかなる優劣も存在しない。

この世は単なる仮想現実に過ぎない。

人は性別・民族・人種の枠を超えて生まれ変わる。

すべては「神のリーラ(遊戯)」にすぎない。

このように、根本的には、万人は平等です。みんな神様から出てきた分身ですから。

しかし、だとするなら、親と子が対等でいいのでしょうか。

親が「おい、ヒロシ!」と子に呼びかけるように、子もまた親に対して「おい、マサル!」などと呼びかけてよいのでしょうか。

なにしろ、万人は同じ「アートマン」であり「神様」のはずです。

親子に限らず、すべての大人と子供は、対等な立場で接し、対等に話をして、同じ社会的役割を果たすべきなのでしょうか。

また、大人と子供といえば、教育の場における先生と生徒は、友達のような関係であるべきなのでしょうか。先生の権威とか威厳とかは必要ないのでしょうか。

男が「男らしく」、女が「女らしく」という発想や発言は、差別なのでしょうか。

なにしろ、人間の魂は、本質的には性を超越しているはずですから!



神様があえて多様なアヴァターを創造したのには理由がある

違うんですね。

人間がみんな同じ神であり、本質的には平等であり、同一であるとしても、それは即、現世における役割・役柄を否定していい、ということには繋がらない。

親と子、年長者と子供、男と女・・それは究極的にはただの外見に過ぎなくとも、神様があえてそういう分類を創った理由を推し量る必要があります。

あえて役柄を作ったということは、それにはちゃんと意味があるということです。親たるものが親らしくしなくてよいし、子たるものが子らしくしなくてよいなら、神様はそもそもそういう分類を創ったりしません。「男と女」という性別も同じです。

これは「すべての人間は本質的には平等」であり「人の名と姿は単なる役柄でしかない」という真理とは、また次元の違うテーマなのです。

究極的にはそうだけども、この仮想の宇宙劇においては、一時的な役割にも意味が与えられているということです。これはゲームのルールのようなものです。

なぜ人は「仮そめの役割」を真剣に演じなければならないか

たとえば、野球を指して、「ただボールを木の棒で叩いているだけじゃないか」と達観してしまったら、それはゲームとして面白いでしょうか。いいかげんな気持ちで、適当にプレイしていて、プレイヤーは本当に楽しいと感じるでしょうか。

そうじゃないんですね。その「ボールを木の棒で叩くゲーム」を、記録を競うほど真剣にやることによって、俄然、ゲームそのものが面白くなってくる。

マラソンを指して「ただ走っているだけ」、テニスを指して「ただラケットでボールを弾き返しているだけ」、重量挙げをさして「ただ重い物を持っているだけ」、ゴルフを指して、水泳を指して、剣道を指して、サッカーを指して・・・。

そうやって“達観”したところで、益々つまらなくなっていくだけなんですね。

ソニーのプレイステーションや任天堂のゲームも同じ。

真剣にやることによって、ハラハラドキドキ、夢中になれる。

「バイオハザードなんてただ画面の中の出来事じゃないか」

「ゼルダの伝説? 画面の中で行ったり来たりしているだけだろ?」

そんなふうに思ったら、面白くないじゃないですか。

私たちが今生きている「究極のVRゲーム」すなわちこの「仮想世界」においても、やはり同じなんです。真剣にプレイするために、わざわざ生まれてきたんです。

万人は同じ「アートマン」であり「神様」でありますが、それは究極のレベルでそうであって、この現世において与えられた役柄にはちゃんと意味があるわけです。

たとえそれが「仮のもの」としても、私たちがそれを真剣にこなさないと、この世界劇・宇宙劇・究極のVRゲームそのものが正常に機能しなくなってしまいます。

各人が役柄に応じて「らしく」振舞わなければならないというのは、この「ゲーム」を成立させる上で不可欠なルールと言っていいと思います。

もちろん、何事もバランスが大事であって、それが「熱病」の域にまで行ってはいけないことは、言うまでもないと思いますが。