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人が真剣に生きるということは神様が「この世ゲーム」を経験するということ

人は役柄に徹しなければならないという話をしてきました。

少し繰り返しもありますが、重要なことなので、さらに追求したいと思います。

私たちは、神の創造したこのバーチャル・リアリティ世界における「アヴァター」であり、それゆえ名前と姿形は、あくまで「仮」の役柄でしかありません。

だから、ある人生における性別、人種、民族といった属性もまた、アヴァターの単なる衣服にすぎません。その上に、さらに国籍、年齢、子供・大人といった区別、家族、職業、社会的立場などの様々な衣服が重なり、その人の「役柄」が形作られます。

言ってきたように、役柄には本質的な実体はありません。しかし、この仮想世界を「劇」へと変える、つまり、ドラマチックな世界たらしめる「意味」があります。この世界が仮想だとしても、そこでの経験の価値までが失われることはありません。

経験の価値とは、ある意味、娯楽とか、醍醐味というふうにも換言可能です。これこそが真に重要であり、まさにこれを味わうために神様はこの世界を創造しました。

しかしながら、仮想世界での体験に真に「意味」を与え、体験を体験たらしめるためには、私たちがその仮の役柄を演じる必要があるのもまた事実です。

そして、役柄に徹するとは「真剣に生きる」ということでもあります。

たとえば、家族が侮辱されても黙っているのか?

祖国が侵略されても黙っているのか?

みんな同じ神様だから無問題? 相手も私も、本質的には同じ神様の顕現であり・・何を言っているのか、という話ですね。それは究極のレベルにおける真実。

この仮想世界という「劇」の中では、ちゃんと演じるべき己の役柄がある。

私たちは今、何のためにこの仮想世界にログインしていると思っているのか。「この世ゲーム」を真剣にプレイするために、わざわざ生まれてきている。

役柄に忠実となり、己の役割を果たさずして、どうしてゲームを真剣にプレイするという「遊び」が成立しようか。思い違いもはなはだしい・・・というわけです。



だから神様は「この世ゲーム」をあえて難しく作った

神様が何のためにわざわざ「多」となって、自分に暗示をかけて、わざと記憶を消してまで、今この瞬間、私やあなたという「人間」となって、「この世ゲーム」をしているとお思いでしょうか。その理由はたった一つ、経験するという楽しみのためです。

神様は経験を欲しているのです! それは、私たちがゲームをプレイすることと、何ら違いはありません。「小さな神様」である私たちも、潜在意識ではそれをよく分かっていて、何よりも経験することを望んでいます。仮想世界の富が本当の富ではなく、所有物をただ増やすだけでは本当は少しも楽しくない真実を、私たちの本質は知っています。

ゲームを面白くするコツ、又はゲームを楽しむコツは、たった一つです。それは真剣にやるということです。たかがゲームじゃないか、私たちは3Dゲームの中の「アヴァター」じゃないか、などと達観するのは、人間期を卒業する時で十分なのです。

だから役柄を放棄すべきではありません。それはわざわざプレイをつまらなくする行為であり、ひいては「この世ゲーム」を創造した意味までを崩壊させかねません。

もっとも、どんな人も無意識にそれをやっていますので、とくに注意を促す必要はありません。幸いと言うべきか、私たちはこの世界に誕生した瞬間、記憶を失い、肉体を真の自分と錯覚し、死を恐れるように仕向けられています。だから、わざわざ演じることを意識しなくとも、ごく自然に演じる格好になっています。そうやって真剣に生きる又演じることによって、本質的には虚構の体験が、さも真の体験らしくなるわけです。

さらに、もう一つ、幸い(なのか?)なことに、私たちがプレイしているゲームは、個人のレベルでも、人間集団のレベルでも、実に難しく作られています。

自分の人生をプレイするだけでも悪戦苦闘の連続なのに、それに否応なしに社会の大きな変動が被さってきます。社会は一定のサイクルを持っています。社会的な矛盾は常に拡大していく傾向に設定されており、それを支えきれなくなると、社会はいったん崩壊を余儀なくされます。そしてまた新生する、ということを繰り返しています。

それがまた個人の運命にも影響し、さらにゲームを複雑で困難にします。私たちはそのことで人生と世界を呪うこともありますが、神様としての私たちは楽しいのです。