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世俗の成功法則とは異なる「霊的な成功法則」がある

故・黒沢明監督の『生きる』という映画があります。

主人公はずっと惰性で公務員をやって来た人でしたが、己の死を自覚して、小さな公園の建設に全力を尽くすようになります。そして死を前に満足の笑みを浮かべます。

この映画は、まさに人が生きるとはどういうことかを教えてくれます。

さて、前回、前々回と、次のような記事を記しました。

各人が「役柄」を演じてこそ「この世VRゲーム」が成り立つ
当記事は、先行するこちらの記事と互いに補完し合う関係にあるので、一部、内容が重複する部分もありますが、ご容赦ください。 インドの神霊哲学に学んだ私は、次のように述べてきました。 私たちはみ...
人が真剣に生きるということは神様が「この世ゲーム」を経験するということ
人は役柄に徹しなければならないという話をしてきました。 少し繰り返しもありますが、重要なことなので、さらに追求したいと思います。 私たちは、神の創造したこのバーチャル・リアリティ世界におけ...

「霊的な観点」から見ると、巷間でもてはやされている世俗的な成功法則とは、また次元の異なる「真の成功法則」が存在することが分かります。



いわゆる“成功哲学”の大きな間違い

今、本屋で山積みされている成功哲学には、大きな欠陥があります。その種の価値観からすると、実際には99%以上の人が「不成功者」になってしまいます。

若くして亡くなった兵士は、人生の「負け組」なのでしょうか。

貧しいながらも家庭を切り盛りして三人の子供たちをなんとか一人前に育て上げたお母さんの人生は「失敗」なのでしょうか。

発展途上国のスラムに生まれ育ちながら、近所の人たちと互いに助け合い、仲良く、楽しく過ごしてきた人は、いわゆる「底辺」の「負け組」なのでしょうか。

生まれた時から貧しく、病気がちであり、生涯にわたりよい仕事に恵まれずとも、その人なりに悪戦苦闘してきた人生は「失敗」だというのでしょうか。

生まれつき目や手に障害があり、一生福祉に頼ることを余儀なくされた人は「成功者」ではない、というのでしょうか。

ずっと労働者・サラリーマンであり、絵に描いたような「平凡」な人生を送った人は、負け組ではないが「勝ち組」でも「成功者」でもない、というのでしょうか。

巷間の成功哲学や成功法則からすると、そういう結論になります。

それによると、富と地位を得て、家族にも恵まれて、豊かで何も不自由なく、充実した、いわゆる「幸せ」な人生をまっとうした人だけが「成功者」です。

しかし、そんな人がそもそも世の中にどれほどいるでしょうか。また、世間からはそのように見え、また本人がそう振舞っていたとしても、それが真実なのでしょうか。

歴史上のどんな王侯貴族や、現代のロックフェラー家やケネディ家でさえも、たとえ富と地位はあっても、他方で家族・病・事故の問題とは無縁ではありませんでした。地上のいかなる富者・強者・権力者でさえも、不運とは無縁でありえないのです。

すると、いわゆる成功哲学なるものが、途端に怪しくなってこないでしょうか。だいたい、そういう成功哲学を説いている人自身が、本当にそうなのでしょうか。

こういった「勝ち組・負け組」といった愚かな価値観が、いつしか日本社会を覆うようになりました。昔の日本人はそういう馬鹿な区別を口にしませんでした。

このような価値観は単に幻想を追いかけるようなものです。

自分なりに成すべきことを見つけることが霊的な意味での成功へと繋がる

そもそも、霊的観点からすれば、人は無数の輪廻転生を繰り返すのであり、その中で、恵まれている人生もあれば、どんなに努力しても底辺の人生もあります。

大事なことは、その人が人生においてどれほど精神的に学び、どれほど内的な成長を遂げたか、また他者や社会に対してどう振舞ったか、ということです。

あるいは、どんな時も、一生懸命だったか、精一杯生きたか、ということです。

それだけが重要なのです。

それ以外のこと、たとえば、金持ちだったか、貧乏だったか、ということは、人間の本質とは関係がありません。

それどころか、本当は、幸福か、不幸か、ということも、さして重要ではないのです。だいたい、幸がなければ不幸もないし、不幸がなければ幸もありません。

そういう意味で、両者は神様からすれば等価ですらあるのです。

誤解を恐れずに言えば、どんな不幸も貴重な「経験」なのです。だから、世俗の価値観から見た、とくに経済万能的な成功哲学など、真に受ける必要はありません。

たしかに、悲惨な経験をした人の中には、死後もそれに捕らわれ、この世と決別できない人もいるようですが、一般的にその「切り替え」がスムーズにいった人は、肉体が滅んだ後に、自分が貧乏だったことや不幸だったことを気に病んだりしません。

むしろ、精一杯生きなかった、人を傷つけてばかりだった、家族や友人を悲しませてしまった、楽しようとしてズルをした、時間を無駄にした、お金を追いかけてばかりだった、社会に有害なことをしてしまった・・というようなことを一番後悔するのです。

その時の後悔や罪悪感ときたら、想像以上に強烈なものだそうです。現世だったら「死んでしまいたい」と思うわけですが、あの世だと逆に「また生まれてやり直したい」と強く思うわけです。そして人はまた望んで生まれてくるというわけです。

その時の想いは、たとえ生まれた際に記憶を消しても、私たちの「内なる声」として、心の奥底に残存しています。だから、人は「内なる声」に耳を澄ませば、自分が現世においてやるべきことが漠然と、だが確信をもって分かるわけです。

それゆえ、「内なる声」に導かれ、この世において己の使命や義務を見い出した人は、たちまち人生の達人になるわけです。

もちろん、使命といっても、人それぞれなので、なにも世に名声を轟かす業績や歴史に残る偉業を要求されているわけではありません。たとえば、

  • 授かった子供を精一杯の愛情を込めて一人前に育て上げる。
  • 一労働者としてコツコツと社会における一つの役割を果たす。
  • 何かの問題を解決するために研究に一生を費やす。
  • 歌や演奏や芸能といった才能を通して人々を楽しませる。
  • 行政、警察、消防、軍隊といった分野で、公の利益のために身を捧げる。
  • まっとうに商売をして、従業員とその家族を食べさせる。

等など、どんなことでも、その人がそう思えば、使命や義務になるのです。そしてそれに尽くす時、人は内的な真の満足感を得られるのです。

それがたとえ現世の世俗的・経済的価値観からして“不成功”であり“負け組”の人生だったとしても、魂的には成功の人生になるのです。

イエスさんの言う「天に富を積む」という教えも、そういうことだと思います。