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カルマを肯定的に捕えてそれをプラスに生かす方法

借金が減ることは喜ぶべきことでしょうか。それとも悲しむべきことでしょうか。

もちろん、「嬉しい」と感じます、誰でも。

当たり前ですね。ところが、霊的な借金となると、私たちはこの常識に反する態度を取っているとは言えないでしょうか。つまり、霊的な借金が減ったのに、喜ばずに逆に怒ったり悲しんだりしている、ということです。



なぜカルマ(因果応報の法則)が生じるのか?

すべての人々は何らかの形で「カルマ」を背負っています。

私たちは過去生の記憶がありません。だから、過去生において、どれほどの罪を犯してきたかも、きれいさっぱり忘れています。他ならぬ私自身がそうです。

そのようなカルマは人生を跨ぐと言われています。そして、私たちはいつかその清算を強いられます。

なぜなら、私たちは「神の同時多発現象」だからです。他人とは、本当は自分自身なのです。よって、他人にしたことは、自分にしたことも同じです。

サイババさんは『黄金の宇宙卵』で、次のようにおっしゃっています。

忘れてはならぬことは、あなたの真の本質は他の人の本質とまったく等しいということです。他の人は、他の名前をもつあなた自身なのです。あなたが善い行いをするとき、それはあなた自身のためになります。しかし、あなたがだれかに悪い行為をするとき、よく覚えておきなさい、あなたは自分自身を傷つけているのです。ですから他の人に決して危害を加えてはいけません。

よく覚えておきなさい・・・本当にそうだと思います。

「神のスパコン」は人智を超越しています。最適なタイミングを選んで、本人が作ったカルマを本人に反射させます。それは完全に時空を超えて作用します。私たちはある時、ある場所でそれを受け取ることになりますが、世界の背後で作用している神的ルールについて無知なため、嘆いたり怒ったり悲しんだりする羽目になります。

時としてそれは耐え難いほど理不尽であり、苦痛ですらあります。そんな時、この世や運命を呪ったり、絶望したりするのが普通の反応です。私もそうです。

カルマを賢く料理して負債を軽減するには?

しかし、神様の視点からすると、必ずしも違うようです。

同じく『黄金の宇宙卵』からの引用ですが、サイババさんは、プラシャンティ・ニラヤムにおける1960年の講演において次のように述べています。

パラブダカルマ(進行中の因縁)が進歩を阻むと悲しんではいけません。あなたの幾度とない前世の行為の報いが蓄積したサンチカカルマ。

サンチカカルマという倉庫からあなたがいま選び出して消費しているのが、パラブダカルマです。

つまり、私たちが今、苦痛や困難に直面しているとすれば、それは、本当はその分だけのカルマ(霊的な負債)を燃焼させて灰にしているということです。

しかも、それは絶対の義務ではありません。なぜなら、因果応報というルールを定めたのは神だからです。それゆえ、創造者自身の前では修正が利くのです。

賢く用い料理すれば、現在消費中のパラブダカルマは甘美でおいしい健康食品となります。そのうえ、神の恩寵によって過去の行為の報いは減ほされ、あるいは修正きれます。決して疑ってはなりません。善因善果、悪因悪果の法則が破ることのできぬものならば、わたしが霊性修行と善い生活と徳の涵養(かんよう)を教えるはずがありません。あなたが神の恩寵を手に入れるなら、パラブダカルマは朝日の前のもやのように溶けてゆきます。

カルマを賢く料理して神の恩寵を手に入れるとは、具体的にどのような想念や行為を指すのでしょうか。サイババさんの言葉をよく読めばヒントを掴めます。

浅はかな私見で申し訳ないですが、結局、その体験を自身の霊的な向上に生かすことができるか否かではないかと思います。

自分が受けた仕打ちのあまり、他人や世の中を恨んで、否定的な想念・言動・行動に走ってしまっては、ますます罪を重ねるばかりです。

それがまた因果応報のタネになるとしたら、完全に悪循環です。

たとえば、誰でも学校や職場で先輩や上司から理不尽な扱いを受けた経験があると思います。その時、心に痛みを覚えます。それゆえ、自分が上の立場にたった時、下の立場の者に同じ様な思いをさせたくないと考えるか、それとも逆に、ここぞとばかり同じ仕打ちをして「恨み」を晴らそうとするのか・・。この辺が分かれ目の気がします。

もし自分が受けた仕打ちゆえ、あなたが「他人にだけは決してこの苦しみは味わわせたくない」と考え、行動するなら、それが“カルマを賢く料理”したということではないでしょうか。なぜなら、すべてが「学び」や「気づき」のためだとしたら、すでに教訓を得た人に同じレッスンを繰り返すことは、神様にとって無意味だからです。

「神のスパコン」も無駄を無くして、なるべく負荷を減らしたいはずです。

あくまで社会の常識やルールを逸脱しないこと

ただし、ここで注意しなければならないのは、明らかに法律やモラルやその他の人間社会の常識に反する仕打ちを他人から受けた場合、そのような行為は社会のルールに基づいて処置されねばならないということです。

「元はと言えば、自分が自分にしたことだから・・」などと深読みして、内的成長の材料とするのは結構ですが、それは「被害者が泣き寝入りすべき」ということを意味しません。刑事上の被害を受けたら警察に、民事上なら弁護士に、ちゃんと解決を委ねるべきです。

「カルマ」のレベルで言うなら、むしろ加害者側にとっても、そうすることが望ましいのです。彼としても、社会的な罰を受けることによって、なるべく早くその霊的負債を軽減した格好になります。そういう意味で、大きな視点でいえば、この種の人間社会のルールもまた、神のルールの一部の役割を担っているといえます。

まあ、世俗の話は、当サイトでは本題ではありません。

要は、誰もが何らかの負債を背負っていること。ただ、カルマの法則でさえも神の恩寵の前には修正されること。そして、それはいかにパラブダカルマ(進行中の因縁)を賢く料理するかに掛かっていること。それらが大事なポイントですね。