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仏教の教え――死と老いを悲しむな

撮影:Takaaki Yamada

この世は仮想現実であり、人生はそのログイン期間に過ぎないということは、私が当サイトで繰り返し述べていることです(*カテゴリー「この世の真実」を参照のこと)。

つまり、死とは単にこの仮想の世を「ログアウト」したに過ぎない、と。

一方で、仏教は死についてどう考えているのでしょうか。

ブッダさんは次のように説いています。



人は屠所に引かれる牛のように一人ずつ連れ去られる

(以下、中村元訳『ブッダのことば』(スッタニパータ)より引用)

この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。

生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

たとえば、陶工のつくった土の器が終にはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。

若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

このように世間の人々は死と老いとによって害(そのな)われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。

(以上引用終わり)

このように、ブッダさんは、すべての人にとって、死は必然であり宿命であると述べています。賢者ならばそれを悲しまないという。

最後の行の「来た人の道」は前世を、「去った人の道」は来世を表しています。

人が輪廻転生するということは、魂そのものは不滅であると言っているのと同じです。

ブッダさんいわく、死んだ人に嘆き悲しむのは無益

(以下、再び同書より引用です)

迷妄にとらわれ自己を害なっている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

みずから自己を害いながら、身は痩せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕われてしまったのだ。

見よ。他の(生きている)人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕えられて、この世で慄(ふる)えおののいている。

ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊(やぶ)れて消え去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。

たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の声明を捨てるに至る。

だから〈尊敬されるべき人〉の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。

たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように智慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起ったのを速かに滅ぼしてしまいなさい。

(以上引用終わり)

同じ内容の繰り返しがあり、やや冗長な気もしますが、要は泣いたり悲しんだりしても益々苦悩が深まるばかりで、身体にもよくない、ということです。

無益とまで言い切っている。

だから、賢者ならば速やかに悲しむのを止めて、心の安らぎを得なさい、と。

「人間は己の血の一滴ですら所有できない」などでも述べましたが、私たちの「何かを所有できる」とか「所有している」という思い込みは錯覚でしかありません。私たちは自分の肉体ですら真に所有してはいません。逆にいえば、肉体は真の自己ではないということです。両者を同一視することは人間の最大の過ちの一つです。

住む家を変えることを「引越し」、世界を変えることを「死」と言います。

ただ、ブッダさんの言うようにまったく悲しむことを止めてしまったら、現代では冷たいとか無感情というふうに誤解されますので、その点は注意したほうがいいですね。