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仏教は因果応報(カルマの法則)を詳細に説いている

カルマについてはサイババさんの貴重な教えを紹介しました。なぜカルマが生じるのか、その負債を軽減することはできないのか、といったことを述べています。

ぜひ当記事と合わせて読んでいただきたいと思います。

ところで、ブッダさんはどのように教えているのでしょうか。

これに関しては、私たちが仏教に関して抱いている一般的なイメージと、そう違いありません。しかも、より強く、警告色を帯びたメッセージとなっています。

愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける。

(出典『ブッダの真理のことば』P19~20)

まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。

まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福に遭う。

「その報いはわたしいは来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。

「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。

(出典『ブッダの真理のことば』P27)

このようにブッダさんは、「熟する」という表現を使って、行為の「報い」が一定期間後に必ず顕現することを説いています。

だから、悪人でも、一時的には栄えるように見えることもある。

一方、悪だけでなく、善に対しても、同じ様に「報い」があるという。まあ、あまり見返りを期待して善を行うのもアレですが、少しくらいならいいかもしれません。



隠れて悪事を成功させてもどこにも逃げ場所はない

つづいて、中村元先生の『ブッダの感興のことば』(ウダーナヴァルガ)では「第九章 行ない」として、行為とその結果の法則について一章を割いています。

勝手ながら説明のために私が赤字にさせてもらっている箇所があります。

唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を拒んでいる人は、どんな悪でもなさないものは無い。

戒律をまもらず、みずから慎むことなくして人々の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食うほうがましだ。

もしも汝が苦しみを恐れるならば、もしも汝が苦しみを嫌うならば、あらわにも、あるいは秘密にでも、悪い行ないをなすな。

もしも汝が悪い行ないをなすならば、あるいはいつかなすであろうならば、汝は苦しみから離脱することはない、――たとい汝が(空中に)浮かび上がって逃げようとしても。

大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこでも悪業の制圧しない場所は存在しない。

割り込みさせていただきます。

彼岸の世界を拒んでいる人とは、たぶん目に見える現世や物質しか信じずに、霊的な教えや世界観を頭から否定しているタイプを指しているのではないかと思います。

神やあの世の存在を否定する無神論・唯物論の信奉者は、たとえ表向きは善人を演じていても、裏で悪事をやることがあります。「神(天)がすべてを照覧している」という考えがないので、「世間にバレなければいい」と高をくくっているのです。

しかし、誰も見ていない悪事でも、神様だけはしっかりと見ています。

だから、ブッダさんは、愚人の浅知恵を見通して、「隠れて悪事をやって、うまく世間を騙したつもりでも、ちゃんと報いがあるぞ。この世界のどこにも応報の苦しみから逃れられる場所はないぞ」と、わざわざ警告を発せられたのだと思います。

この逆がいわゆる「陰徳を積む」になるかと思います。

なんでもカルマで片付けないこと(私の意見)

この世で他人のした悪い行ないを見ては、ひとは非難するであろうが、その悪い行ないを自からしてはならない。悪人は実に(自分の)業に束縛されている。

詐欺や慢心をともない、正しくない行ないにより、あるいは他人から企まれて、人々を傷けるならば、その人々は深い坑の中に堕ちる。人々は実に(各自の)業に縛せられている。

人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。実に業は滅びないからである。

或る物が人に役立つあいだは、その人は(他人から)掠奪する。次いで他の人々がかれから掠め取る。(他人から)掠め取った人が、掠奪されるのである。

ちょっと注意が必要ですが、因果応報の考えには、ある種の危険性もあります。

たとえば、自分や他人の身に起きた不幸な出来事を指して、すべて「過去の報い」の一言で片付けてしまったら、私たちの社会は成り立たないということです。

「私が財布を盗まれたのは、過去に私が人の財布を・・」などと考える前に、まず警察に通報しましょう。カルマ云々より、犯罪に遭遇したら、まず自衛しましょう。

このことはカルマに関する以前の記事でも、次のように述べました。

カルマを肯定的に捕えてそれをプラスに生かす方法
借金が減ることは喜ぶべきことでしょうか。それとも悲しむべきことでしょうか。 もちろん、「嬉しい」と感じます、誰でも。 当たり前ですね。ところが、霊的な借金となると、私たちはこの常識に反する...

内的成長の材料とするのは結構ですが、それは「被害者が泣き寝入りすべき」ということを意味しません。刑事上の被害を受けたら警察に、民事上なら弁護士に、ちゃんと解決を委ねるべきです。

「カルマ」のレベルで言うなら、むしろ加害者側にとっても、そうすることが望ましいのです。彼としても、社会的な罰を受けることによって、なるべく早くその霊的負債を軽減した格好になります。

なんでも「これはカルマだから」で片付けてしまうと、間違った現状の肯定や、改善に対する無気力、ひいては社会悪の助長にすら繋がりかねません。

インドの支配階級などは、この霊的な教えを悪用して、うまく階級の固定化に利用したんですね。ヒンドゥ教の本来の教えは「万人の本質的平等」なのに、そのせいで、インドはまったく逆に、世界最悪レベルの差別社会になってしまった。

つまり、因果応報の教えは「諸刃の剣」でもあります。霊的教訓としつつも、他方で、差別に繋がることや社会全体の不平等を容認してはなりません。

どうか、みなさんの近代人的な常識との間で、うまくバランスを取ってください。

それでもカルマの教えは私たちにとって重要である

つづけましょう。

愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。しかし、 来世におもむいて、悪い行ないをした人々の行きつくところを知る。

愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。しかし、のちに報いを受けるときに、苦痛が起る。

もしも愚かな者が、悪い行ないをしておきながら、気がつかないならば、浅はかな愚者は自分自身のした行ないによって悩まされる。――火に焼きこがされてやけどした人が苦しむように。

聡明でない愚人どもは、自分に対して仇敵に対するようにふるまう。悪い行ないをして、苦い果実をむすぶ。

もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善いのである。

自分の幸せだけをもとめる人々は、笑いながら悪いことをする。しかし、かれらはのちに苦しんで、泣きながらその報いを受ける。

悪い事をしても、その業(カルマ)は、しばり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟するのである。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。

悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。

鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を食いつくすように、悪をなしたならば、自分の業が、静かに気をつけて行動しない人を悪いところ(地獄)にみちびく。

(出典『ブッダの感興のことば』P189~190)

もう、これでもか、というくらい、因果応報の法則が繰り返し説かれています。

しかも、はっきりと「悪事の報いは来世にも及ぶ」という内容が記されている。しつこいようですが、この考えには注意が必要です。

無理に信じる必要はないんですね。たとえ、ブッダさんがおっしゃっても、私にも本当がどうかは、確認しようがない。ただ、このような考えが、現世で悪を行うことの抑制に一役買うなら、それだけでも十分、意味のあることではないでしょうか。

ちなみに、サイババさんは、こうもおっしゃっています。

「神の恩寵によって過去の行為の報いは減ほされ、あるいは修正きれます。決して疑ってはなりません。」

これは私たちすべてにとって朗報ではないでしょうか。

(*ブッダさんの本は「おすすめの書籍」コーナーで紹介しています)

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