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なぜ「人生の成功」という価値観そのものを捨てたほうがよいのか?

さて、これは前回の記事の続きです。

福島大学教授の飯田史彦氏の貴重なスピリチュアル体験を取り上げましたね。

人生で大事なたった三つのこと【光の教え】
いつの頃からか、「勝ち組・負け組」というおかしな基準が世の中で吹聴されるようになりました。日本には元々そのような価値観は一般的ではありませんでした。 それに伴い、「成功の法則」といった類いの人生...

「あの世」で飯田氏と対面した高次元の光の存在は「人間社会での成功」をバッサリと斬り捨てていました。それは評価対象じゃない、そのための努力もいらないと。

ツインソウル―死にゆく私が体験した奇跡

「あの世」の価値観と、世俗の価値観は、かくも乖離しているわけです。

そもそも「人間社会での成功」とは何でしょうか。

たとえば、一般に言われているのは、次のようなものです。

一流の大学を卒業して立派な学歴を身につける。

官庁や大企業に就職する。また、医師・教授・弁護士などの仕事に就く。

このような高学歴と社会的地位は、一般的には、高収入にも繋がります。よって総合的に見て、社会の「勝ち組」と見なされ、一定の成功者に分類されます。

また、この二つの要素が欠落していても、ビジネスや創作の世界で成功して、お金を儲けたり、名声を獲得したりすれば、一種の社会的成功と見なされます。

さらに、よい異性と結婚して幸せな家庭を築き上げたり、大きな事故や大病を防いだりすることも、成功をより豊かにする条件と考えられています。

一般に、これらのことが「人間社会での成功」というふうにイメージされています。

そして、それを獲得するために、一生懸命に入試や資格のための勉強をしたり、就職に努力したり、商売や創作に励むことが、私たちの社会では「良い」とか「立派」と考えられています。まさに飯田教授が光の存在に訴えかけた「人間社会での成功を目指してがんばった、その努力」のことです。当然、価値があると思うのが、私たちです。

しかし、「無い」と断言するのです、上の方たちは。

私はここで、ふとルドルフ・シュタイナーの次の言葉を思い出しました。

「成功する、しないは、欲望から行動するときにしか、意味を持たない。そして欲望から為された一切の行動は、高次の世界にとって価値を持たない。高次の世界にとっては、もっぱら行動に対する愛だけが決定的である。」

『いかにして超感覚世界の認識を獲得するか』(とくま学芸文庫)(P131)

もしかすると、「社会的成功を目指す努力」とは、換言すれば次のことかもしれません。

自分が高学歴を得たい、自分が社会的地位の高い仕事に就きたい、自分が商売でお金を儲けたい、自分がよい異性を獲得したい・・・。

つまり、結局は、利己的な目的のためであり、自己の欲望のためということです。

対して、光の存在の言う「学ぼうと努力したか、愛そうと努力したか、使命を果たそうと努力したか」の「努力」とは、それ自体を目的とする純粋なものです。

仮にあなたが医者だとしたら、病で苦しんでいる人を一人でも多く助けたいという想いから医者となり、日々、その動機から責務を果たすのでなければなりません。

そういう想いがないわけではないが、やはり第一に来るのは大きな収入を得て良い暮らしがしたいからだ、というのなら、霊的には欠格というわけです。

見返りを目的とした“愛”の欺瞞性がよく指摘されますが、それと同じなわけです。

どうやら、神の基準的には、あなたが純粋に勉強したいと思った、純粋に役割を果たしたいと思った、という、それだけが重要らしいのです。

ならば、結果として社会的に成功しようがしまいが、どうでもいいはずです。

この世では、そういった「心」の部分は隠れていて他人には見えない。

しかし、あの世では、あなたが本当は心の中で何を考えているのか、その「想いの質」こそがもっとも重要視される。ゆえに一切の偽善やゴマカシは通用しない。

それが、あの世とこの世の大きく異なる点のようです。

『いかにして超感覚世界の認識を獲得するか』